18 サイン


 帷湍の字はとても上手い。


 と、成笙は常日頃から思っている。


 悪筆で密かに有名な成笙は、自分の所に回ってくる帷湍経由の書簡や巻子を見る度、自分の字の下手さ加減を思い知り、帷湍の字と比べては内心情けない思いをしていた。


 もちろん、文官の方が夏官よりも筆が立つのは当たり前だ。
 彼らはそれを仕事としているのだから、夏官が文官より身体能力が高いのと同様に、筆耕なり算術なりの能力が高いのは当然である。
 文官の選挙では、文字の上手下手も点数のうちであるから、有能な官吏には達筆な者が多いし、位の低い府吏あたりでもそれなりの字を書く。
 しかし、帷湍の字はその中でも特に秀でていると思うのは、成笙の身贔屓だろうか。

 夏官でも玄英宮に勤めるほどの人材であれば、ある程度以上の読み書きが出来ねばならないが、文官と違ってその『文』の比重は非常に少ない。
 多少拙い字を書いても、まあ大目に見てもらえる。
 その為か、夏官には字の下手な者や文書の作成を苦手とする者が少なくなかった。

 しかし、さすがに成笙ほど位が上がるとそうも言っていられなくなる。
 他人に読めぬ字を書いていては執務に影響が出てしまう。

   成笙とて最初から自分の個性的な字を披露していたわけではない。
 官位が上がるにつれて、否応なしに書卓の前に座って筆をとる機会が増していっただけだ。
 なんとかしてこの書き物仕事を部下達に割り振っているが、全てを任せることはできない。
 成笙が決裁をしなければならぬ物も多かった。


 目の前に詰まれた巻子には、見慣れた文字と、見慣れた名前。
 その帷湍の名前を指で辿る。


 思えばこの字も随分長く見てきたものだ。


   伸び伸びとしていながら品を損なわず、程よく崩してありながら読みやすい字。

 何か良いことがあったのか、今日の署名は心なしか柔らかい。


 字は本人の人柄を表すものであるが、本当に帷湍の性格が滲み出ているかのような文字だ。
 真っ直ぐで、堅そうに見えて堅くない。
 判りやすく、柔らかい。

 成笙にとってどんな美しい書よりも価値がある名前。


 時折成笙が字を誉めると、耳まで赤くなって照れた、帷湍の顔が目に浮かんだ。




 朱衡は能書家で、滑らかで流れるようなとうとうとした筆遣いをする。いささか鋭すぎる感もするが、それもまた官吏らしい。
 尚隆も意外に達筆で、大胆で力強い文字を書く。崩し字たるや書家並の見事さだ。適当に筆を滑らせても、その適当さが様になっている。




   それに比べて自分の字は、いかにも捻くれ曲がっている。 

 どうも角張っていて、ぎこちない。
 筆圧が一定でなく、奇妙な強弱がついてしまう。
 何度気をつけていても、いつのまにか斜めになっている。
 癖の強い、癇の強い字。

   同じ悪筆でも、六太の踊るような愛嬌のある字とは違い、酷く不恰好だった。



   「これでも上達したんだが……」



   以前の、他人が判別すらできないような字よりは随分ましになったと思う。
 これも練習の成果だろうか。

 だが、まだ全然足りない。


 帷湍の名前の隣に並ぶ成笙の名前は、これでは納得できない。


   そして今日も、成笙は筆を握る。


 己を高めるために研鑚を積むのは武人の性だが、この鍛錬は少しも辛くなかった。
 まだ幼く、自分の武芸の上達が日々実感できたあの頃のように、心が弾む。
 鉄面皮と言われる顔も、きっと緩んでいるに違いない。


 そして今日も、あの声がかけられる。




 「成笙待ったか?ちょっと仕事が長引いて……ああ、もう始めているのか」

 「いや、準備が終わったところだ。今日は何を?」

 「前回のおさらいをしたら、『留め』の練習をしよう」




 急いでやってきたせいで、息を乱している帷湍に、そっと床几を薦める。
 冠を正して、襟を整える。
 成笙の正面に座った帷湍が、にこりと微笑んだ。



 「お前の名前で、練習をしようか」



 そして今日も、至福の時間が訪れる。

 器用にも逆向きのまま添削する帷湍は、時折成笙の筆に手を添えては直させる。
 暖かく柔らかい手は、成笙の、豆がつぶれて堅くなった手の体温をいつもよりずっと上昇させた。
 
 上手く書ければ嬉しそうに笑ってくれる。癖が直らないと困った顔をする。
 部下の誰かに誉められたら、酒を奢ると約束をしてある。

 これで成笙が上達しないはずがない。

 斜めに曲がらない成笙の名前が、帷湍の名の横に記される日も、そう遠くはないだろう。



 ゆっくりゆっくり進む二人を、梅の蕾が、窓から静かに見守っていた。

 

    2004.1.27
 やっと成笙と帷湍をUPできました・・・・。
 成笙の一人称だとまともそうですが、本人が真面目でもやってることがおかしい。
 先王の時代から要職にあったのに、今頃になって彼が字の練習を始めたのは、帷湍のためです。
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送