小ネタその5(連作1・朝)







 夜も明けきらぬというのに、宿舘の中ではすでに朝の支度が始まっていた。

 朝餉の香りがほのかに漂い、房室の外では人の立ち働く気配がしている。
 遠くへと旅立つ者たちは出立が早い。
 外も薄暗いうちから準備をし、大抵は夜明け前後に宿舘を出て行く。




 尚隆は牀からむくりと起き上がり、大きく伸びをした。
 強張った体をほぐすように、軽く首や肩を回す。

 (相変わらず寒い……)

 ほっと息をつくと、吐息は白くなって空気に溶けた。

 慶は雁より気候が温暖だが、それでもこの時期の朝の冷え込みは厳しい。
 暦の上ではそろそろ春の声も聞こえようというのに、今年の冬はなかなか立ち去ろうとしない。


 しばらく逡巡したものの、意を決すると一気に上掛けを剥いだ。
 暖かい衾褥は魅力的だが、もう起床しないといけない時間だ。
 何度か眠い目を瞬いてから、衣擦れの音さえ立てずに床に下りる。

 ヒヤリ、と氷のような感触が足に伝わった。

 足元に吹き溜まる冷気に、身体を微かに震わせる。


 (空を行くにははちと辛い気温だな)


 この時分、上空は地上より更に冷たい風が吹いているだろう。
 その風があまり強くないことを願いつつ、耳を澄ませた。
 鳥の鳴き声だ。
 朝焼けの紫を帯びた光からしても、どうやら雨は降っていないらしい。
 
 

 「もう発つのか」



 寒さを堪えつつ、顔を洗おうと鏡台の前に立った時、突然横から声を掛けられた。
 半房という、いわゆる相部屋を共に使った相手の声だ。

 
 「ああ」 


 尚隆は驚くでもなく答えた。
 鏡台を挟んで尚隆と反対側の牀で、声をかけた相手が頬杖をついてこちらを見ている。
 顔は向けずに目線だけそちらに投げると、再び鏡台に向かった。

 気心の知れた相手だけに、扱いがぞんざいになる。 


 「起きていたのか、利広」
 
 「まあね。房室の外がざわざわしだしたから勝手に目が覚めたんだ」


 どうやら起きるつもりで起きたわけではないらしい。


 「なら寝直しておけ。暫くここに滞在するんだろう?俺に付き合うことはない」

 
 利広とは昨夜偶然市で出会ったのだが、その時彼は慶についたばかりだったのだ。

 奏から巧を抜けて慶まで来るには、徒歩で数ヶ月、騎獣でもそれなりの時間がかかる。
 すう虞のようにずば抜けて足が速い騎獣にでも乗っていれば話は別だが、利広の騎獣はそういった種類ではない。

 長旅は、たとえ騎獣に乗っていようとも、気づかぬうちに疲れが溜まる。
 せめて目的地についた一日くらいは寝過ごしてもいいだろう。

 
 「確かに多少疲れてはいるけどね」

 
 利広は髪を掻きあげ、溜息をついた。
 まるで独り言のようにぼやく。
 
 
 「なんでせっかく君が起きているのに、私が寝ていなくちゃならないんだ」

 「は?何だそのわけのわからん理論は」


 冷たい水に顔を顰めつつも、尚隆は利広の言葉を聞き返した。
 翌朝帰るつもりだった尚隆は、請われるままに同じ房室に泊まったが、別に一緒に起きる必要はない。
 
 房室を出て部屋代を払ったら、宿舘の者に挨拶でも言付けて、一人で先に発つつもりだった。
 一言もなしに立つほど縁が浅いわけでもないが、かといって見送りをされるほどの関係ではない。単なる腐れ縁なのだ。

 顔を洗う尚隆に、利広がのんびりと話しかける。


 「久々に旅先で会えたんだから一緒に行動しないか?二、三日滞在を伸ばす気はない?」 

 「ない。もう帰る。お前と違ってこっちはそろそろ軍資金も乏しくなってきたんだ」

 利広が半房を申し出た時も、密かに助かったと思ったほどには逼迫している。
 『たま』がいる限りは厩のない宿舘には泊まれないから、これはかなりありがたかった。

 「路銀なら貸すけど」

 「………お前に借りを作るのはどうも不安だ」


 利子だなんだとどんな難問を吹っかけられるか分かったものではない。
 以前それで痛い目を見たことがある尚隆は慎重だった。
 
 二度も同じ間違いをしたりはしない。 


 「あ、酷い」 

 「何とでも言え。とりあえず見たかったものは見たから帰る。長々とお前に付き合ってまた厄介事に巻き込まれるのも御免だ」

 「厄介事ねぇ……別に私だけが持ちかけてるわけじゃないだろう。君だってたまに私をこき使うじゃないか」

 「『たまに』だ。被害の大きさも違う。そうやってお互い迷惑を掛け合っているのも不毛だろうが」


 利広の抗議を鼻で嘲笑い、髪を結い直す。
 袍を着たまま寝ていたから、それ以外の身支度といえば背心を羽織る程度のものだ。

 不満げな利広の視線が背中に突き刺さる。
 うっとうしげに首を振った尚隆は、呆れた顔をしてから言った。 


 「……それに、首を長くして俺の帰りを待っている連中がいるからな」


 あまり国を空けると六太の調子が悪くなるし、遅くなるとどんどん笑顔が凄みを増していく男もいる。
  
 今回は予定よりもかなり長く留守にしてしまったから、帰ったら散々文句を言われるに違いない。
 麒麟はいじけているかもしれないし、あいつはにこやかな顔で荒んでいるだろう。
 同僚に八つ当たっていなければいいのだが。
 
 
 「仕事も待ってるんじゃないかなぁ」

 「そこはそれ、鬱陶しくなったらまた逃げ出すさ」


 ひょいと肩をすくめて笑ってみせる。


 すっかり身支度を整えた尚隆は、手馴れた動作で髪を調えると、枕元に置いていた太刀を佩いた。
 そのまま利広には目もくれず、窓を空けて天気を確かめる。


 点々と浮かぶ千切れ雲がゆっくりと流れていた。

 予想通りの、いい天気だ。

 風も強すぎず、かといって無風というわけでもない。
 寒さを我慢できれば、騎獣で空を旅するには絶好の天候である。


 太陽は白い光を投げかけ始め、朝焼けが終わろうとしている。 
 そろそろ出発したほうがいいな、と尚隆は呟いた。
 すう虞の足なら昼過ぎには雁に着くだろうが、どうせあちこち寄り道するのだから早く出るに越したことはない。
 



 床においてあった少ない荷物を抱えた尚隆は、戸口まで行ってようやく利広へと向き直った。
 
 


 「俺もそろそろ我が家が恋しくなってきてな。本当は、見たい顔があるから帰るんだ」



 そう言ってにこりと笑ったその笑顔は、無邪気な小童のようだった。
 珍しく、なんの他意もない素直な笑顔だ。

 風になびく黒髪がふわりと舞い上がって、頬を縁取る。
 
 細く差し込み始めた朝日が漆黒の瞳をきらきらと輝かせる。
  





 利広は眩しさに目を細めた。


 たかだか百年の差だというのに、未だにこういう表情のできる尚隆が羨ましかった。
 彼は只人ならば既に寿命を迎えているような年月を過ごして、なおも屈託なく笑えるのだ。

 尚隆がこうして素直に感情を見せることは本当に少ない。
 いいかげん長い付き合いになる自分が、片手で余るほどしか見たことがないのだから筋金入りだ。

 それでも、こうしてふとした瞬間に見せる表情を心待ちにしてしまう自分を省みて、利広は我ながら度し難いと自嘲した。

 時を重ねるごとに、自分は心を鈍らせてきた。
 彼もまた時間とともに感情を失ってしまうだろう。
 いつぞや、尚隆は、人間はそれほど長く生きるようにはできていない、と言っていた。
 自分が変わることを予見しているように。


 
 


 そこまで考えて、バカバカしくなった。


 (それでも、いまこうして笑っている彼がいなくなるわけじゃない)

 
 胎果だから、というわけではなかろうが、利広にとって延主従は、今まで見てきたどの国の王と麒麟よりも強い光を放っているように見えた。  
 やがてこの王も終わりを迎える時が来るだろうが、おそらく最後までこの光が消えることはないだろうと、そう思えるほどに。

 終わりばかりを見すぎたせいか、と利広は苦笑した。
 斃れる前からこんな想像を巡らすのは、目の前の王に対する非礼になるだろう。





 
 「どうした?」
 
 
 いつもなら何かしら軽口が返ってくるのに、珍しく反応のない利広に、尚隆は首をかしげた。
 
 悪いものでも食べたのだろうか。それとも何か悩み事だろうか。
 いらないことばかりベラベラ喋る癖にいきなり黙り込んだりされると気になる。
 

 「なんでもないよ。いそいそと帰り支度をしているのが可愛いと思ってね」  

 「ふん、待っていてもらえるうちが花だからな。お前もあまり家を空けすぎると待っていてもらえなくなるぞ」

 
 扉に寄りかかった尚隆が揶揄するように言った。
  

 「そうなったら雁に行こうかな。そこで君の帰りを待つのも悪くない」
 
 「戯言だ。三日と我慢できずにふらふら出歩くに決まっている」

 「なら、一緒に旅をしよう。そうすればずっと側にいられるし、なかなかいい考えだと思わないかい?」

 「…………お前その調子で旅先の女を口説いているのか……。相手を選ばんと、いつか刺されるぞ」


 呆れた顔での忠告に、利広は笑うばかりで答えない。
 
 ふと、いよいよ明るくなってきた外に気づき、尚隆はひらりと身を翻した。
 無駄話に興じすぎたと舌打ちする。 


 「さて、俺はもう行く。お前も忘れられんうちに帰れよ?」


 別れの言葉を一つのこすと、返事を待たずに出て行った。
 利広が声をかけようと口を開いたが、閉まった扉に、そのまま口を閉じる。
 止める暇もない。
 
 まるで旋風のようだ。
 突然入り込んで、掻き乱して、またいきなり出て行く。

 
 「あーあ……割と本気だったんだけれど」 

 
 そうポツリと言って、利広は窓の外へ目を向けた。
 
 開け放った窓からは冷たい風が容赦なく吹き込んでくるが、やがてこの冷気も太陽に暖められて和らぐだろう。 
 
 
 尚隆の光に惹かれて、熱を取り戻す利広の心のように。 
 

 雁はまだ真冬の気候だが、あと半月も経てば花の蕾が膨らみはじめているはずだ。
 木の芽が芽吹き、枯れた大地を緑が覆い始める。

 春だ。


 「真面目に口説いても、いつもいつも素っ気無いし。………そういうつれない処もいいんだけれど」

 

 一際強い風が吹き込んだ時、青い空に白い騎獣の後姿が映る。
 尚隆の乗った『たま』だ。
 どうやら朝餉も取らずに発ったらしい。


 空を翔る美しい姿を見送りながら、ふと思いつく。 


 「慶の次の目的地は、雁かな」

  
 尚隆が聞いていたら、絶対来るな!と言いそうだ。
 玄英宮を訪れた自分を見て、尚隆はどんな顔をするだろうか。

 きっと顰め面をしつつも美味い酒を用意してくれるはずだ。
 ちょっとごねれば、関弓を案内してくれるかもしれない。
 
 
 楽しい想像に、ひとしきりくすくすと笑った利広は、あくびを噛殺して再び衾褥の中にもぐりこんだ。
 もう一眠りしている間に、尚隆の夢が見られるかもしれない。 
 

 緩やかな睡魔に引き込まれ、あとは優しい、夢の中。





2005. 3. 2



   後書き ↓

 SSS初の十二国記です。なんか久々なんで文体が………。まあ、SSSですから、習作ということで。

 これは連作読みきりSSSの一番最初です。テーマは朝。この後、昼、夜と続く予定ではありますが、予定は未定です。
 一応まだ玄英宮に朱衡、成笙、帷湍の三羽烏がいる時代と考えてください。
 陽子が来る頃になると成笙が秋官長に戻ってて、しかも聞くところによるとアニメじゃ毛旋が禁軍左将軍だそうですね。
 しかも脚本2冊目では、小野主上から「今でも王宮に仕えているのは朱衡ぐらいのものではないか」なんて発言が飛び出したそうで……。生死さえ不明の帷湍と成笙の行方が気にかかります。玄英宮の外で働いてるだけならいいけど。


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