チャイムが鳴った。 慌てたように駆け出す者、マイペースに歩きはじめる者。友人を探す者。 教室とは逆の方向に行く二年生は、これからサボるつもりだろうか。 うららかな日差しの下での昼寝はさぞかし心地よいに違いない。 窓枠に頬杖をついた雅孝は、眼下で繰り広げられる平和極まりない学園風景に、穏やかな笑みを浮かべた。 「高柳!まだこんな所にいたのか。そろそろ時間だろ」 呆れたような声に振り返れば、文七が開いたドアから顔を覗かせている。 「文七さん」 「文七さん、じゃねぇよ。お前が遅えから俺がオツカイに出されたんだろうが」 そういいつつも、急かすでもなく窓辺に歩み寄ると、ひょいと窓枠に腰掛けた。 そのまま視線を下に向け、そこにある光景を目にして僅かに笑う。 雅孝が何に見とれていたのか解ったからだ。 時折上がる大きな笑い声と、冗談交じりのわざとらしい悲鳴。 誰かの名前を呼ぶ声と、ぱたぱたと走る足音。 「感慨深いか」 「ええ。たった一年であれだけのことがあったのに……」 凪宗一郎をはじめ、多くの人間があの一連の事件で人生を変えた。 満身創痍でも、手足を失っても、命を落とさなかっただけ儲けものだ。 一通りの混乱が収まった時、死者の列に加わった者は一人や二人ではなかったのだから。 ………雅孝の兄、光臣も、その一人だ。 どれだけ時が流れても、忘れることはないだろう。 兄がどんな気持ちで自分を遠ざけようとしたのか。 それを知った今となっては、かつての自分を殴り飛ばしたくなる。 文七は騒動に巻き込まれる形で関わっただけだが、雅孝は自ら進んで首を突っ込んだ。 兄への確執、亜夜への恋情、自分の武の道に対する悩み、葛藤。 コンプレックスとプライドと、守りたいという意思。 心身に深い傷を負いながら、それでもそこに得るものはあったと、あの時は思ったけれど。 「………去年と同じ光景を見ていると、僕もあの頃と大して変わってないんじゃないかな、って思います」 自嘲するような雅孝の言葉に、文七は眉をしかめた。 この男のこういうところは、相変わらずだ。 それでも口に出すようになっただけマシだろうか。 「今のおまえを、一年前に誰が想像できたと思う?自分を卑下すんのはやめろ。おまえのそれは一種の逃げだ」 キツイ一言に、雅孝は自分への嘲笑を苦笑に変えた。 相変わらずの童顔だが、表情一つとってもまるで別人のように大人びている。 内面の変化がこれほど顕著に現れているのに、当の本人だけが気づいていないのは、いっそ滑稽でさえあった。 「はは……情けない話ですが、いまだに自信がないんですよ」 「俺ァ、今度こそ学園生活をエンジョイさせてもらうぜ。おめェの自信なんざ知らねぇ」 あっさりと切り捨てると、困ったような顔で頭をかく。 文七はその姿を一瞥してから煙草に火をつけると、煙と共に一言吐き出した。 「まぁ、気楽にやれよ。おまえはおまえだ」 暗に、『光臣にはなれない』、という言葉に、返って来たのは静かな微笑みだった。 戦いが終ってから、よく見かけるようになった笑みだ。 ナントカって仏像がこんな笑い方してたっけ……と、ボンヤリと眺める文七に、視線を逸らした雅孝が呟いた。 「………行きましょうか」 「あぁ、本鈴が鳴る前にな。立場上遅刻するわけにゃいかねえだろ?」 「それは文七さんだって同じじゃないですか!」 「俺ァ関係ねぇよ。せいぜい面白おかしく見学させてもらうさ」 「む……無責任です!大体ですね、文七さんは……」 軽い言葉のキャッチボールは、やがて教室を出て、廊下の向こうに消えていく。 いつのまにか生徒の声も消え、誰もいなくなった窓辺には、桜の花弁だけが静々と舞い込んでいた。 ライトに照らされた壇上に、雅孝がゆっくりと上がる。 武道家としてどころか、一般生徒と比べてさえけして大きくはない体躯だが、そこには誰もが目を惹かれる確かな存在感があった。 混乱の末に残された多くの難題。 静寂の水面、と棗亜夜に称された男は、高柳家や統道学園やその他諸々を全て飲み込んで、己の内に深く沈めた。 これから先に予想される数々の困難をも包み込み、黙ってその身のうちに抱え込むのだろう。 『守る』ということこそを己の武と定め、今、兄が立っていた場所に立つ。 (これで全部引き継いだことになるよ。……兄さんは、満足した………?) この問いに応えが返ることは、ない。 雅孝は一瞬瞑目し、悲しみを胸の中にしまいこんで、目を開いた。 頭を切り替えて新入生の一団に目を走らせれば、いくつかの強い視線に気付く。 負けん気の強い奴はいつの時代もいるようだ。 これから暫くは校内で小競り合いや喧嘩が頻発することだろう。 昨年、凪達が暴れたように。 穏やかな笑みを湛えたまま、雅孝は万感の思いをこめて口を開いた。 「………はじめまして。僕が、生徒自治会執行部会長、高柳雅孝です」 かくして暗黒の時代は終わりを告げ、学園が再び「パラダイス」となる。 新しい統道の歴史が、この時、この場所から、始まろうとしていた。
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