梵天丸様明日の医療を語られる熱が下がって三週間。 目の周りや背中に残っていた瘡蓋もすっかり取れて食事の量も大分増えた。 最初は飯を一口食うのにも一々介添えが必要だったっけ……我ながらよく回復したもんだ。 布団から出られるようになってからは、暇さえあれば庭先をふらふら歩いて回るのが日課になっている。 本当はもっと行動範囲を広げたいところだけど、部屋からちょっと離れると小十郎に捕獲されるんだ。 そろそろリハビリを始めないと春になっても体力が戻らないと思うんだが、奴は政岡さんとタッグを組んでオレを部屋に押し込めようとするんだよ……。 オレの身体を心配してるんだろうが、正直ウゼェ。過保護すぎ。 いくら寒いったって、こんなに天気が良くて風もない日に達磨みたいに着膨れてりゃ風邪なんぞひかんっちゅーねん。 仕方がないのでここ数日は診察に来る医者を引き止めては縁側で医療技術を伝授している。 青空教室ならぬ縁側教室ってところか。 さすがだよなオレ。実益を兼ねた素晴らしい暇つぶしだ。 ま、伝授なんて偉そうに言ったところでオレは医者でも薬剤師でもない。 日常生活で得られる常識の範囲内のことしか教えられんのだが、そんな知識でもないよりゃマシなのがこの時代の医学レベル。 伝染病に罹った途端に神頼みに突入するような世の中なんだぜ? 最初に知ったときはガチで吹いたわ。 で、その件の医者なんだが…… 今、茶を飲むオレの目の前で一心不乱に筆を走らせている禿頭のお兄さんがそれだ。 左側に置かれた紙の束から一枚取ってはさらさらと流れるように筆を運び、書き終わった紙を右側へ移動。 その早いこと早いこと、お習字練習中のオレにゃあ真似のできないスピードだ。 こんな勢いで貴重な紙を消費して財布の方は大丈夫なのかと人事ながら不安になるが、その辺の農民ならいざ知らず、彼の職業は医師だ。 必要とあれば紙の100枚や200枚、なんとか都合をつけられるんだろう。このブルジョワめが! ちなみに紙は今も着々と消費されている。 生真面目そうな若いお医者さん、年齢は三十ちょっとだったかな。 梵天丸以前のオレよりちょい上くらいの年だ。 お兄さん曰く頭は禿げてるわけじゃなく剃ってるらしいが、この角度だと太陽光が反射してとっても眩しい。 ―――何か言いたい人もいるかもしれんが異論は受け付けない。彼はお兄さんだ。 お兄さんです。あくまでもお兄さん。決しておじさんではない。 リピートアフターミー、お口を大きく開いてー。 お・に・い・さ・ん! ……三十代はまだお兄さんだろ。常識的に考えて……。 「ふー……」 常識についての深い考察をしていたら、お兄さんがちょっと大きく息をついた。 お、どうやらひと段落したようですな。 新しい紙をセットして、手馴れた所作で墨を磨り始める。 「お待たせいたしまして申し訳ございませぬ。……む、どうかなさいましたか?」 いえいえ何でもありませんよ。 さあ話の続きと参りましょうかね。 「では、先ほどの飛沫感染とやらのご説明でありました『ますく』について御教授いただきたく」 ああ、どういう物かよく分からない? んーと鼻と口を覆うように布を当てて、四隅にゴムをつけて……あ、ゴムは今の時代じゃまだないか。 じゃあ紐だな。紐をつけて頭の後ろで固定してー。そうそう、後ろで結ぶの。 当てる布は目の粗い物を何枚か重ねるんだ。 「なるほど。呼吸を遮らないようにですね」 通気性を確保しとかんと窒息するしな。 まあ一応布を用意してもらえれば試作してみるよ。現物があったほうが分かりやすい。 「よろしくお願い致します。では、以前仰っておられた消毒については如何様に」 うーん。 天然痘だと医療器具だけでなくて病人の使った布団や着物も消毒しないとまずいんじゃないかな。 できることなら燃やしたいくらいだけど、布団なんて貴重品だし流石にそこまで強要はできないだろ。 煮沸消毒がせいぜいってとこか。 正直そこまでやっても効果があるかどうか怪しいもんだが、やらないよりゃいい。 「畳等はどういたしますか」 「その辺はとりあえず日光に当てて乾燥させながら時間を置くとか……」 考えながらお茶を口に含んで、思わず顔を顰めた。 うえ、すっかり温くなってるわ。 「……なるほど、それでは今診ている患者にはお教えいただいたことを踏まえて対応いたします」 メモを取りつつそういうお兄さんに、ひらひらと手を振って応える。 「うんうん。ついでにウチの暇そうな連中にも伝えてくれ。オレが言うより効果的だ」 若さゆえに威厳がちと足りないが、幼児よりゃ医者のほうが信用されやすいだろ。 このお兄さんは普段伊達家の主治医をやってる老医師のお弟子さんにあたる。 当然医療についてはオレより実績があるし、バックボーンだってしっかりしてわけだ。 去年疱瘡に罹ったそうだから感染の危険も低いし、客観的に見てお兄さんが動くのが一番いい。 ……決して面倒くさいからとかの理由で押し付けたのではないぞよ。 「承知いたしました。もっともここ10日ばかりは御家中で倒れられた方はおられませぬが」 「でもこの先も大丈夫とは限らないだろ」 奥州で猛威を振るった天然痘は城内でも力いっぱい暴れてくれたからな! オレは流行初期の段階で罹患したんだが、感染が遅かった何人かは今も寝込んでいるそうな。 つかね、オレが倒れる前と後とで人員が明らかに減ってるんですよ!! 知った顔がいつの間にか消えていますが怖くて行方を聞けません。 行く先を聞いたら逝く先だったとかシャレにならんだろ。今シャレにしたけど。 家族の看病とか本人が病気にかかったとか、オレの病気が怖くて逃げ出したとか色々考えられるが、前者だと悲惨だ。 そもそも致死率が高い上に、天然痘は治った後も酷いあばたが残るからなぁ。 罹患した女の人の中には、せっかく治ったのに顔に凄い痕が残っちゃって自殺した人までいるとか。 ありえん!ありえん! 命の方が大事だろ常識的に考えて。 女の人っていつの時代でもこうなのか……? 女の顔に傷が残るってやっぱり大変なことなのかな。 男にゃよくわからん感性だ。 ……ん。オレ? オレはどういうわけか右目周辺に痕が集中したもんで他は割と無事なんだ。 まあ肩と足には多少残ってるけど、お医者さんに言わせれば比較的痕は薄い方みたいだね。 目はともかく身体の痘痕はどうせ着物着ちゃえば見えないし。 そもそも嫁入り前の女の人とは条件が違うから多少痕が残ったって問題ないわな。 つーかね、右目が見えないことの方がよっぽどショック。 片目が使えないと本当に不便よ? 予想以上に視野が狭くなったし、とにかく距離感が掴めない。 おかげでしょっちゅう何かに躓いたりぶつかったり。慣れるまで大変だろうなぁ。 もっと先だと思ってた段差を踏み外すとか、地味に辛い。 そして見た目。これは真剣にどうにかせにゃならん。 今んとこ包帯でぐるぐる巻いてるが、濁った目はお世辞にも見ていて気分がいいとは言いがたい。 夜中に出会えばお岩さんの上を行く恐ろしさだ。 残った左目も慢性疲労のせいで常に半眼。元は良かった梵天丸フェイスなのにすっかり人相が悪くなっちまった。 病気怖い!怪我怖い! とにかく左目はなんとしても守らねばならん。 万が一の時に最悪の事態を避けるため、医師にはより高度な知識を身につけて貰うのだ。 そのためのネルf……じゃなかった、縁側トークです。 なんつっても生死に直結する問題だからな。 医学知識に関しては一切の出し惜しみをせずに思いつくことを片っ端から話している。 風邪や流感の感染ルートや予防の話から人工呼吸や心臓マッサージ、果ては教習所で習った包帯の巻き方までそりゃもう勝手気ままにな。 内科も外科も公衆衛生も関係ねぇ! 歯を磨くのは朝より夜が大事だという話の直後に人体構造の説明をする。そのフリーダムさがオレの持ち味だ。 でも職場で受けた救急救命講習の知識より学生時代の教科書や小説、ドキュメンタリー番組で得た雑学の方が喜ばれててちょっと涙目www せっかくAEDの使い方覚えたのに……(´・ω・`) まあ心肺蘇生法は使えるだろうから良しとしておこう。 心臓マッサージはともかく人工呼吸を教えた時は凄い胡散臭い目で見られたけど、あれは今後きっと役に立つ。 じ、実地で教えたりはしてないから誤解すんなよ!!
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