○○○○とロナルド・ウィーズリー1984年、英国。 その日は雨が降っていた。 風もなく。音もなく。 しとしとと密やかに路面を濡らす、細い細い雨。 外に出なければ雨が降っていることに気づきもしないだろう。 声を殺して泣いているような。 そんな雨だった。 「まずは魔法について話さねばなるまいて」 アルバス・ダンブルドアと名乗った老人の言葉を、彼はただ黙って聞いていた。 流暢な日本語で語られるのはまるで御伽噺だ。 魔法使いとマグル、コインの裏表のように隣接する世界のこと。 魔法省と魔法学校。箒を駆る競技クィディッチに小鬼の運営する銀行。 車の代わりに箒や煙突で移動して、電気の代わりに杖のひと振りで明かりをつける。 そんな魔法使いの世界で生まれ育った小さな子どもに降りかかった災難。 きっかけは双子の兄の悪戯だった。 蜘蛛を怖がる弟の、大げさに怯える様が面白かったのだろう。 昼寝をしている小さな弟のベッドに、近くの森で集めた蜘蛛をぶちまけた。 趣味がいいとはいえない悪戯だが、やんちゃな少年が二人いればこの程度の行き過ぎは許容範囲だ。 怒った母親が弟に謝るように告げ、食事抜きの罰を言い渡され、仕事から帰った父親にも叱られて。 この時点では、まだ10歳にも満たない少年たちもその両親も、その後子どもの身に何が起きるのか予想もしていなかった。 カーテン越しの穏やかな日差し。昼寝をする幼い子ども。 窓の外の洗濯物から香る石鹸の匂いに、兄弟の笑い声。 美しくも優しい光景だ。 けれどその光景は、子どもの目覚めによって砕かれる。 ゆっくりと目を開き、直後に悲鳴を上げる子ども。 視線の先には枕元を這って行く蜘蛛。 恐怖のあまりバネ仕掛けの人形のように跳び起きるが、布団を除けようとして硬直する。 掛け布団、ベッドの上を覆う無数の蜘蛛。 ベッドから零れ落ちたと思しき蜘蛛が床をカサカサと歩き回り、何匹かは壁にまで登りはじめている。 布団の中にもいるようだし、もしかしたら服の中にもいるのかもしれない。 蜘蛛。蜘蛛。蜘蛛。蜘蛛。 蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛…… ただの虫だと笑う者には分からない。 年端も行かない幼児が、数え切れないソレを見てどれほど恐怖したか。 手の甲を這っていく何かに気づき、子どもはそのまま意識を手放した。 そして訪れる悲劇。 子どもの名はロナルド・ウィーズリー。 青年の心が宿った、子どもの体の持主だ。 「……私がこの子に取り憑いたってェ可能性は」 赤毛の幼児が。正確には幼児の体を使う青年が、強張った表情で静かに問いかけた。 高い声に不似合いな鋭い語調。幼い容姿に反する落ち着き。 唇から流れ出したのは外見からかけ離れた歯切れのいい日本語だ。 「霊が憑依した状態というのはの、どこか違和感を感じるものなんじゃ」 一つの体に二つの命が同居するという不自然な状態には、必ず歪みが現れる。 多くは憑依された体の不具合、あるいは周囲の気温の低下や帯電、ラップ音。 「中には己を隠すのが上手い悪霊もおらんではないが、おまえさんの場合はそれに当てはまるまい。 なにせ『そこにいる』ということが分かっておるにも関わらずロナルド君との境界が見つからんのじゃから」 そもそも魔法族は魔力があるためか憑依されにくい。 よほどに霊の力が強いか、さもなくば何かの道具立てがなくては体を乗っ取るような真似できない。 その魔法族に、たとえ対象が魔力の不安定な子供であろうと、生前マグルであった青年がどうやって取り憑けるというのか。 どれほど幼くともロナルド・ウィーズリーは純血の魔法族。 スクイブでないのは両親が確認済みで、小さな体に内包する魔力はそれなりに強い。 「だから、私に憑けるはずがないと仰るんで?何事にも例外はあるんじゃござんせんか」 仮に青年の魔力、あるいは霊的な力がずば抜けて強かったとしたら? 「それならそれで、ロナルド君の魔力と反発しあうだけじゃ」 青年の魔力が例外的に高く。 脈絡もなくイギリスに引き寄せられ。 何故か本人の自覚もなしに取り憑いて。 何の歪みも引き起こさず一つの体に同居し。 反発も抵抗もなくロナルド君の体を乗っ取り。 魂の境界さえ分からぬほどに二人の親和性が高く。 アルバス・ダンブルドアをもってしても痕跡をつかめぬほどにロナルドの魔力が弱い。 そんなことがはたしてありえるのか。 普通に考えるならばありえない。 だが、青年がロナルドの体を使っているという現実がここにある。 「君の語った死後の話や当たり前のよう使っておるその日本語からして、狂言の線はまずありえん」 そこで一つ、仮説を立てた。 世の中には前世の記憶を持つという者がいる。 知っているはずのないことを知っていたり行ったことがない場所を詳細に覚えていたり。 はたしてそれが本当に前世の記憶というものかどうかは別として、自分のものではない人生の記憶を持っているという点では今回のロナルド・ウィーズリーのケースと同じだ。 ゆえに青年の人格を、仮に『前世』と考えてはどうか、と。 「……1984年といやぁ、まだ私は生れてもいないんですがねぇ」 「さて、死後の世界の時間がどのように流れているかはワシにも分らんでな」 「そりゃごもっともで」 一度死んでも分からなかったのだから、死んだことのない人間にだって分かるまい。 「摩り替わったわけでもなく乗っ取ったわけでもないのじゃから、こう考えたほうがいいじゃろう。 ……前世の記憶を思い出したと同時に、4つまでの記憶を失ったと」 ダンブルドア老人が言ったその言葉は、生まれてから4つになるまでを生きた『ロナルド・ウィーズリー』という個の死を告げるに等しい。 「お前さんがロナルド・ウィーズリーじゃ」 ――――なら、殺したのは私だ。 青年は痛みを覚えた胸を掴んだ。 カッコウの託卵のようだ。 鳥のそれは生きるための本能だが、これはあまりにも救いがない。 我が子と思って育てた相手が、我が子を殺した相手に摩り替わっていたら、あの優しげな赤毛の婦人はどう思うだろうか。 嘆くだろう。憎むだろう。恨むだろう。たとえそれが青年の本意でなかったとしても。 (神様も惨いことをなさるもんだ……) 前世だって?今生の記憶が一つもないのに? 自分にしてみれば子供の体を乗っ取ったのと同じだ。 何の罪もない小さな子供を殺してまで生きたいとは思わなかった。 確かに死にたくて死んだわけではないけれど、こんなあさましい生など欲しくはない。 「……成仏は、できないんでしょうか」 自分の死と、子供の生と、両方を穢されたようで胸が、心が痛い。 これはどちらの痛みなのだろう。 幽霊となった自分のものなのか、それともロニーの? 「成仏……たしか仏教の考えじゃったかな。しかし何をもってして成仏というのか。 ロナルド君の存在が確認できんからには、お前さんが消えたとて抜け殻となった体が一つのこるばかりじゃ」 口調は優しくとも言葉の内容はかなり厳しい。 が、ダンブルドアは率直に事実を述べただけだ。 それが分かって、青年はやり場のない怒りや困惑や嘆きや倦怠感や、その他ありとあらゆる感情をため息一つで無理矢理押さえつけた。 「……ねぇダンブルドアさん。私ゃね、小さな子供を犠牲にしてまで生きたかありませんでしたよ」 吐き捨てるように言う。 一生懸命生きて人生を全うして死んだ。 どれほど短くても、これが自分の寿命だったのだ。 死に瀕した人間が誰しも思うようにもっと生きたいと願いはしたけれど、今のこの状況は少しも嬉しくない。 「分かっておるよ。ようく分かっておる」 宥めるように肩に置かれた手は分厚く固く、どこか祖父の手に似ている。 ぽんぽんとあやすように肩を叩く、そのリズムさえ懐かしい。 もはや戻れぬ時間を思って泣きたくなったが、青年は目を伏せてその衝動をやり過ごした。 無口な父の物言う目。 母の明るく闊達な声。 弟の不器用な気遣い。 妹の無邪気な微笑み。 もう二度と家族とは呼べない人々。 帰りたくても帰れない、遠く離れてしまった我が家。 『こうなっちまったからにゃあ仕方あるめぇ。テメェにできることを全力でやれ』 いつか聞いた言葉を不意に思い出した。 (私にできること……) ロニーを取り戻すことはできない。 あの御婦人に子どもを返してやりたいのは山々だけれど、その術があるなら高名な魔法使いだという老人が最初からやっているだろう。 だったら。 無自覚とはいえ自分が殺したに等しい小さなロニーのことを、一生忘れない。 突然与えられたこの生が終わるまで、その存在を背負って精一杯生きる。 無知で無力な自分にできることなんてそれくらいしかないではないか。 …………本音を言うならば、いっそこのまま死んでしまいたい。 その方が間違いなく楽だ。 死ぬのなんて一度で充分。いくら強がって死ぬ直前まで笑っていたとしても、全く怖くなかったわけではないのだ。 遠い異国で、子どもの家族に恨まれて、またあの死への恐怖と苦しみを味わうくらいなら、今死んだほうがいい。 だが、それを口に出すほど恥知らずにはなれなかった。 死にたいなどと言ったら殺したロニーに申し訳がたたない。 奪った生を生きる覚悟をしなくては。 (とにかくやってみようじゃないか。まずは笑うところからだ) 病室に閉じ込められて薬の副作用に苦しむ日々で、笑うことは戦うことだった。 家族を心配させないように笑えば、後で祖父や父がこっそり褒めてくれたものだ。 (泣きたいときこそ笑ってみせるのが江戸っ子の意地ってもんさ) だから、笑った。 渾身の笑顔だ。 今作ることが出来る、最高の笑みった。 それを見て、ダンブルドアもまた微笑んだ。 歪んだ泣き笑いだとしても、目の前の人物は確かに笑ってみせた。 混乱して落ち込んで立ち直る。言葉にすればたったそれだけのこと。 だが彼は、見知らぬ異郷の地に子どもの体で放り出されたのだ。 しかも自分と言う存在さえも不確かな状況で。 殻に閉じ篭ることも八つ当たりされることも想定していたが、まさかたった数分で落ち着きを取り戻すとは。 外面を取り繕ったに過ぎないにしても、この立ち直りの早さには舌を巻いた。 よほど育った環境が良かったのか。あるいは自己の死という大きすぎる喪失を経験したが故の強さか。 どちらにしても小さな体に収まった精神の強靭さには素直に感嘆する。 「………ロナルド君のご両親にゃダンブルドアさんがご説明してくださいよ。申し訳ないが、私は英語が話せない」 平静を装っても声が震えていたが、ダンブルドアは彼に対する敬意と礼儀から気付かぬ振りをして、何事もなかったかのように会話を進めた。 「伝えておこう。アーサーとモリーが落ち着くまで、お前さんはワシの友人の家で暮らすといい」 「そいつぁ先方にご迷惑なんじゃ……」 ウィーズリー夫妻が自分を受け入れられるとは思えない。 となればいずれはどこか児童福祉施設なりなんなりに入らなくてはならないだろう。 それが今になるか後になるか。どちらにしても行きつく先が同じならば、人様に迷惑を掛けないほうがいい。 「何、金も部屋も時間もありあまっとる暇人じゃ。今は丁度弟子もおらんしの」 「弟子?」 「そうじゃ。錬金術師での。研究の手伝いをしてやれば奴が喜ぶし、人が増えれば奴の細君もまた嬉しかろうて」 徒弟制度のようなものか、と青年は理解した。 小さなこの体で今すぐ独立は無理。となれば宿代代わりに手伝いつつ技術を身につけられるこの話は実にありがたい。 ダンブルドアの友人であれば信用も置ける。施設よりは遥かに好条件だ。 これを逃がす手はない。 「英語はちょいとばかし不自由ですが一生懸命働きますから。ひとつよろしくお願い致します」 深々と頭を下げると、ダンブルドアが苦笑した。 「子供がそんなに気を遣わんでもよいよ。……そういえば聞き忘れとったが、お前さん、名前は?」 「よしましょうや。死人の名前なんざァ聞いたところで腹の足しにもなりゃしない」 呼ばれなくていい。呼ばれるべきではない。 この世に存在しない人間の名前なんて。 代わりにこれから名乗るのは、自分が殺したこの子の名前。 「ロナルド・ウィーズリー、4歳。それでいいじゃござんせんか。ご両親が嫌がりゃ別の名を名乗りますがね」 それまでは、私はロナルド・ウィーズリー。 この名に恥じぬ生き方をしてみせましょう。 「ふむ。よろしい、ならばロニー……ロンや。その時はワシが名付け親になろう」 「ありがとうダンブルドアさん。こんなことになっちまったけど、貴方に会えてよかった」 青年の言葉に、ダンブルドアは心から同意した。 「ワシもじゃよ、ロン。さて、ワシはご両親に事の次第を説明してこよう。前さんを連れてゆくのはその後じゃ。 なに、心配することはない。面白い奴じゃぞ?錬金術師ニコラス・フラメルとその細君は」 ――――そしてロナルド・ウィーズリーは、その後三年ばかりウィーズリー家から姿を消すこととなる。
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