――百年の孤独――




 たとえ天上といえども日は暮れる。
 王の在する凌雲山といえど、太陽の理から外れることはない。
 それは雁州国玄英宮とて例外ではなく、職務の時間を終えてはや数刻、とうに日は落ちていた。
 夜ともなれば走廊を行過ぎる人影もまばらになり、時折警護の小臣がぽつりぽつりと立っているくらいだ。
 灯りの直ぐ横にいるせいで、宮殿内だけでなく灯火の番をしているようでもある。

 そんな人気のない内宮を、足早に歩む者がいた。
 美しく走廊を照らす満月にさえ、眼もくれない。ただ一心に目的地に向かって歩く。


 大宗伯楊朱衡だった。


 もう夜も更けているというのに、朱衡は手元に巻子を山のように抱えて王の臥室へ向かっていた。

 王が朝議に出なくなってかれこれ20日になる。
 その上一昨日から姿が見えなくなり、ようやく今日の夕方に帷湍が探し出したところ、なんと妓楼で舞妓のヒモになっていたという。

 これが怒らずにいられようか。

 どういうわけか今回は大人しく帷湍に連れ戻されたようだが、またいつ出て行くのかと考えれば額に青筋の一つも立とうというものだ。
 小臣をどれだけ貼り付けても抜け出してみせる手際は見事なものだが、それで振り回されるのは臣下なのだから誉められたものではない。


 「今日という今日は夜通し説教を聞かせてやらねばなりませんね……」  


 当分は内殿から出られないようにしてやろうと、密かに決意をかためながら、尚隆の堂室へと急ぐ。
 とにかく逃げられないように夜の内に身柄を押さえておかねばなるまい。
 普段こういった役どころを引き受ける帷湍は、仕事の合間の探索に疲れきって夕刻のうちに帰ってしまった。

 同僚の心労を思いやって、ますます眉間に皺を寄せる。

 こめかみに血管を浮き上がらせながらも口元に笑みを刷くという薄ら寒い表情が、優しげな顔に張り付いている。
 その恐ろしい笑顔で歩墻に立つ小臣を恐怖のどん底に突き落としながら、歩みの速さはけして緩めない。


 「なんだか楽しみになってきましたね」


 今夜は眠らせませんよ。などと、聞きようによってはかなり意味が変わってくる台詞を呟きながら、そっと尚隆の堂室の扉を開けた。
 もちろん尚隆の堂室の前にも小臣がいたが、朱衡の表情を見て黙ってその場を離れる。


 (毛旋と言ったか……よい小臣だ)


 朱衡はさらに笑みを深めた。
 なるほど、毛旋は大変『察しが』良い小臣である。
 触らぬ神に祟りなしとばかりに、何か言われる前に姿を消したのだから。








 扉は軋みどころか擦過音の一つもたてず、静かに開いた。
 が、室内は灯りもなく、尚隆の姿も見えない。

 (隣室におられるのか。先程お帰りになられたばかりだから、まさか御休みになられたわけではあるまいが……)

 尚隆の堂室の奥には、庭院に面した広い臥室がある。
 ここにいないとすればそちらだろう。

 朱衡は無造作に大量の巻子を書卓の上に置いた。
 堂室を横切り、臥室をそっと伺う。
 結構な無礼だが、即位後の混乱期におりた立ち入りの許可は未だ取り消されていないので、咎められはすまい。
 それ以前にあの主であれば気にも留めなかろうが。

 「主上」

 無造作に呼びかける。
 おそらく尚隆は人がいることにに気づいているだろう。
 どうせ尚隆ほどの使い手であれば、気配を隠そうとしたところで隠しおおせるものではない。
 むしろ気配を消そうとしたほうが警戒される。


「…………?」


 臥室のほうにも灯りがついた様子が見えない。
 夜といってもまだ早い時間帯だ。
 灯りがついているはずの室内が闇に閉ざされているのは、明らかに不自然だった。

(主上はどうなされた?)

 ふて寝をしたのか、延麒の堂室にでもいったのか、あるいはまたしても脱走したのか。
 しかし臥室からは確かに人の気配がした。
 ここまで入り込める人間は限られているし、毛旋が何も言わなかったのだから延麒がいるとも思えない。


 ………では、やはりこの気配は尚隆のものなのだ。


 自分は夏官ではないからそれほど気配を読むことに長けているわけではないが、それでもこの臥室の空気の張り詰め方には気がついた。

 息苦しいような、奇妙な感覚。

 (まさか、主上に何事かが起きたのでは…………)

 一瞬の躊躇の後、朱衡は声もかけずに臥室に足を踏み入れた。

 室内は予想に反して明るかった。
 灯火によるものではない。大窓から射し入る月の光だ。
 框にいる朱衡は牀の天蓋から落ちた影に覆われていたから、よけいに明るく感じたのかもしれない。
 昼のものとは違う青みを帯びた光は、重厚にして温かみのある調度を酷く寒々しく見せた。


 ―――――コトン。


 幽かな物音が、牀の向こうから聞こえた。
 そこにあるのは、たしか庭院に続く框窓だったはずだ。


「主上?そちらにいらっしゃるのですか?」


 声をかけつつ慌てて牀の天蓋から下がる紗を掻き分け、物音の方へ足を運ぶ。

 もはや脱走など気にしてはいられない。
 明らかに臥室の様子がおかしかった。

 いや、おかしいのは臥室ではなくて、この空気を作り出している尚隆だ。
 初めて感じる、奇妙に緊張した空気。
 例えるなら、臥室の中だけか細い糸が縦横無尽に張り巡らされているようだった。
 今までに一度もなかったことに、日ごろ密かに懸念していたことが否応なしに思い出される。


 尚隆は普段ちゃらんぽらんで暢気でどうしようもなく怠惰だが、決断力と行動力に優れた豪胆な王だ。
 日頃どれほどふざけた態度をとっていても本当に肝心な時は決してはずさないし、そういう時の信頼を裏切ったことは一度としてない。

 明朗快活で、鷹揚にして寛大。
 現実を直視する眼と理想を追いかける眼差しを兼ね備え、行動することを恐れない。
 下官にさえも気軽に声をかける親しみやすさで、多くのものに愛されている。



 だが、本当にそれは尚隆の真実の姿なのか?
 尚隆は無理をしているのではないだろうか?



 朱衡が、実は尚隆がわざと周囲にそう見せかけているだけではないか、と思い始めたのはここ10数年のことだった。
 おそらくそれに気付いたのは朱衡だけだろう。いつも王の姿を目で追い、思考を探り、思いを馳せているがゆえに僅かな違和感を見逃さな かった。
 あの勘が鋭い延麒すら欺かれているのだから、気のいい同僚は押して知るべしだ。


 誰も、彼の人の心を探らない。
 だから朱衡は、それ以来ずっと尚隆の精神状態を気にしていたのだ。


 延王尚隆はけして弱音を吐かない。

 冗談交じりにつらいと言うことはあっても、その胸中の真実を吐露することは、この100年の間一度たりとも見たことがなかった。
 それは、どこの国の王でもおそらく同じであろう。
 官に容易く弱音を吐くような王は不安定極まりない。
 王たる自覚があれば負の感情を早々表に出すことはできない。
 そのような様子を見せれば、ただ官吏や民の不安を煽るだけだ。

 その王を癒すために存在するのが麒麟だ。
 悲しみも怒りも不安も、ただ一人吐き出すことの出来る者が。

 奏のように王に家族がいるならその家族が王を支えるだろう。
 だが、そういった存在がいない王もいる。
 その時、その心の支えとなるのが麒麟なのだ。
 彼らは王も人間であるということを弁えているから、王は安心して人として振舞える。

 人を王にした彼らこそが、王を人として遇する。
 まるで贖罪のように王に従いながら、その慈悲の心で王を包むのだ。


 だが、延王は己の麒麟にも心中を打ち明けない。


 それが朱衡の言い知れぬ不安の種だった。

 
 延王の半身である延麒六太に対してさえ、苦しみや悲しみを漏らしたことがない。
 延麒も、帷湍も、成笙も、誰も尚隆の本気の愚痴を聞いたことがないという。
 元州の乱の時に口にしたという、院白沢から伝え聞いたあの言葉さえも、弱音ではなかった。



   ――― 国が滅んでもいいだと? 
       死んでもいいだとぬかすのだぞ、俺の国民が!
       民がそう言えば、俺は何のためにあればいいのだ!? ――




 それは、怒りが言わせた言葉だ。まして、誰かに向けた言葉ですらなかった。

 朱衡には分かる。
 その怒りは自分自身へのものであって、外に向かうものではないのだ。
 あの一件で延麒は随分大人になったが、最も傷ついたのは王であったろう。
 尚隆はその傷も、人には見せようとしなかったが。



 その頑ななまでに心を隠す王が、今まで一度として表に出さなかった己が心中を、空気を通じてであろうとも外に知らせている。
 他者の気配を知りながら、いつものように仮面を被ろうとしない。

 何があったのかしらないが、朱衡の焦りを掻き立てるのに十分なことであった。


 「主上、どうかお応えください!」



 「…………朱衡?こんな夜更けにどうした。なにかまずいことでもあったか」


 しばしの間をおいて返された応えに、朱衡はほっと安堵の溜息をついた。
 そして、その姿を目に収めて、息を呑む。


 尚隆は庭院に面した窓辺に腰掛け、引き寄せた小卓の上の酒を飲んでいた。
 酒に満ちた玉杯を揺らして、僅かに首をかしげる。
 外から差し込む月の光を照り返し、白い被衫に羅衫を羽織った姿が自ら光を放っているようだ。


 それは、いつもの尚隆とはまるで別人だった。


 朱衡の知る王は、太陽のように陽気で明るく、風のように軽やかで飄々としていた。
 つかみ所がない、けれど周囲に安心感を与える存在だ。

 だが、今朱衡の目の前にいる男は、まるで月のようだった。

 静かで、冷たく、朧に消え行くようなその姿。

 見ているだけでいつ消えてしまうのかと不安になるような、幻のごとき気配。
 まるで命がないもののようにひっそりと佇む様を見ると、尚隆を酷く遠く感じた。


 一体何故これほどまでに印象が違うのか。
 彼に何があったのか。


 (何か理由があるに違いない……この変化のきっかけが、私の知らない時間に……)

 尚隆は戻ってきてから直ぐに堂室に閉じこもった。
 延麒とさえ顔をあわせなかったというのは帷湍から聞いている。

 とすれば、原因は外だ。

 「………主上。街で何か、ございましたか」

 尚隆が昼間街へ降りていたことを思い出した朱衡は、思わずそう問いかけた。
 何かあったとすれば、その時に違いない。
 硬い口調で言われて、尚隆は微かに笑った。

 「こちらが先に聞いたことだな。おおかた説教でもしに来たのだろうが、その必要はないぞ」

 「何故そのように仰せられます」

 「………暫らく街へは降りんからだ」

 声が低くなる。
 街へは降りないと言った尚隆の顔に、自らを嘲るような、えもいわれぬ暗い微笑が浮かんだ。

 その仄暗い笑みに、朱衡の不安がいっそう掻きたてられる。

 やはり、街で何かがあったのだ。目の前の主君をこうまで変える何かが。
 そうでなければこんなことを言い出すはずがない。 

 「重ねてお伺いいたします。街で、何がございましたか」

 尚隆を傷つける危険を知りながら、朱衡は再度それを聞かずにはいられなかった。
 それほど、尚隆の表情はよくないもののように思われた。

 「拙にお応えいただけぬのであれば、せめて台輔に仰ってください。主上のお塞ぎのご様子、目に余ります」

 必死に言い募る言葉に、またしても背筋が凍るような薄ら寒い笑いを浮かべる。
 張り付いたような表情だった。

 「六太にか?………むしろ、あれにだけは教えられんな」

 麒麟は、王の伴侶だ。
 絶対の臣下にしてその半身。王の心の最も傍にあるべきものに言えないとは、どういうことなのか。
 いつものように本心を伝えない、というものとも違う。
 尚隆は延麒にだけは、と言ったのだ。
 名指しをしてまで拒むその理由が分からない。

 朱衡の疑問に気がついたのか、まるで独り言のように尚隆が呟いた。

 「あれは、俺が王である限りけして俺を信用できない。俺も、あれが麒麟であるがゆえに、その心を信じることができない」

 「そのような………!」

 朱衡は尚隆の言に、声を荒げた。

 それは、逆ではないだろうか。
 麒麟は麒麟であるが故に王を、王は王であるがゆえに麒麟を信頼する。

 王になる者には己に対する猜疑の強い人間が多い。
 自分が王であってよいのか。王たるほどの価値があるのか。王として、何ができるのか。
 その疑心を否定する確固たる拠り所は一つだけ。

 麒麟が選んだ、ということ。

 麒麟は己が王と定めた者に尽くし、王は自分を選んだ麒麟を支えにする。
 互いにとって互いこそが唯一で、その繋がりはなによりも強いのだ。
 その、王の半身を信じることができぬなど、ありえない。あってはならぬことだ。


 ………麒麟を信じられぬ王は、ことごとく夭折しているのだから。


 「王によって国が栄えるが、国を滅ぼすのもまた王だと、六太は知っている。『王』の意味をよく理解している。あれは見かけによらず聡 いからな」

 「………ですが、主上を王に選び、王としての責を負わせたのは、台輔でございましょう」


 そのくせ、王は国を滅ぼすからと信を置かぬのは余りにも身勝手だ。
 国を滅ぼすと知りつつ王を選ぶのは、他ならぬ麒麟だというのに。


 王を信じぬ麒麟など、聞いたこともない。
 麒麟は王に玉座の重責を負わせ、その血肉から存在そのものにいたるまでを国民に捧げさせる。
 その代わりに、己が身を、髪の毛の一筋にいたるまで王へ捧げるのが、麒麟だ。

 王は、王であるが故に常に孤独に苛まれる。

 王は民を救うものだ。だが、その王を救うのは誰か?
 自分以外の人間の為にただ尽くし続け、走り続ける王を休息させることができるのは?
 民意を叶えるものが王。
 では、王の、人としての意を叶えてくれるのは?

 民に求められ、頼られ、縋られ、雁字搦めになりながら、ただ民に与え続ける王が、唯一求めるのを許されるのが麒麟。

 麒麟は王を選び、王を助け、王を癒す。 それがこの世の絶対の理であり、王の心の寄る辺なのだ。


 「……王が国を滅ぼす事を不信の理由とするのは、理不尽にございます」

 「怒るな。それだけ、という訳ではない」


 眉根を寄せる朱衡を嗜めるような声音だった。

 杯の中身を静かに空け、空になったそれをまた片手で弄ぶ。 
 月の光りを跳ね返す玉杯が、尚隆の黒い瞳に光を投げた。

 「六太は自分が麒麟であることを厭うている。『六太』が俺を信頼したいと思う気持ちと、麒麟であるがゆえに王を信ずる気持ちとの区別 がつかぬ」

 その言葉は裏返せば、自分が王であるがゆえに、延麒の心を信じることができないということだ。

 「あれも、自分の気持ちが単なる我侭だと知っているのだ。だが、こればかりは理性だけで納得できるものでもない。麒麟の本能に関わる 話だしな。………それに、隔意があるのはおそらく俺の方も同じだ」

 「それは……」

 「ああ、そんな顔をするな。戯言と思って聞き流せ」

 口が滑ったと言いたげに苦笑する尚隆に、咄嗟にかける言葉が見つからなかった。

 尚隆の言うそれは、ひどく悲しい心のありようだった。
 王の心を慰めるためにあるはずの麒麟が、王の孤独を助長している。
 しかもそれに、王も麒麟も気がついている。
 気がついてもどうすることもできないのだ。


 延麒にも延麒の懊悩があるのだろう。
 果たして自分の気持ちが本当に自分の気持ちなのか。ただ獣としての本能が要求しているだけではないのか、と。

 だが、朱衡にとって何よりも大事なのは尚隆だ。

 互いを信じたいと思いつつ信じきれないでいる、哀しい自国の王と麒麟の行く末を案じながら、なお朱衡には気になることがあった。


 尚隆は何故これほどまでにその胸の内を明かすのか。


 延王は普段からその心の内を読ませることが無い。
 踏み込もうとしてものらりくらりとかわされる。
 王としての強固な仮面は、常に一部の隙もなく尚隆を覆っていた。

 だが、その掴み所のない男が今まさに仮面を外して、誰にも告げたことがないはずの確執を、問わず語りに朱衡に零している。

 おそらく言うつもりのなかったであろうその本心を、臣下に洩らしてしまうほどの何かが、尚隆の身に起こったのだ。
 延麒にだけは告げられないというその出来事はいったいなんなのか。
 尚隆の心をどれだけ揺るがしたのか。

 朱衡の心配は募るばかりだった。

 「……台輔にだけは、と仰せになったその何かを……せめて、拙にお教え願えませぬか」

 思わず零れた問いに、尚隆は不意をつかれたように黙り込んだ。

 「拙は主上のお気持ちを誰にも申しませぬ。主上が、それをお望みではないと存じますゆえ」

 訴える声には熱が篭っていた。

 「けれどその御身に何が起こったのか気にかかります。独り言とでも思し召して、口にしてはいただけますまいか」

 それは純粋な思いやりと心配からくる懇願だった。
 王も臣もなく、ただ尚隆を案じての言葉。

 貴方の身に何が起こったのか心配です。
 口にするだけでも心は軽くなりませんか?と、朱衡は言ったのだ。

 その心が伝わったのか、尚隆の口元に今までと違った柔らかな笑みが刷かれた。

 「たいしたことではない。………街で……還途の市で、知った顔を見かけてな。追いかけたが、見失った」

 「お知り合いを?」

 尚隆は笑った。
 苦い、寂しい笑みだった。

 「別人だ。こちらに来る前の知人だからな」

 蓬莱での知人。
 それは確かに別人かもしれない。けれど、尚隆や延麒のような前例もある。

 「海客という可能性もございましょう」

 尚隆の落胆を思いやってか、低い声で言い募る朱衡に、さらに尚隆の苦笑が深まった。


 「あれから百年経っている。……次兄とよく似ていたのだ」


 聞いた瞬間、しまった、と思った。

 仙に囲まれて生活しているせいか、時間の流れに鈍くなっていた。
 普通の人間は百年も生きはしない。海客が昇仙するような珍事があれば、王の耳に届かぬはずはなかった。

 ………延王は胎果なのだ。

 そのうえ、兄、と尚隆は言った。
 以前その口から、人質として他国で殺されたと聞いた相手だ。
 優しい、自慢の兄だったと。
 なによりも、普段の王とはまるで様子が変わってしまうほどの衝撃を受けていたのだ。
 自分は主上の心の傷痕に爪を立ててしまったのかもしれない。

 「六太には、言うな。こちらへ俺を連れてきたのはあいつだからな。気に病むかもしれん」

 連れてこられる前に死んだ人間だと知っても気にするだろう、となんでもないように言う尚隆に、顔をあわせられなかった。
 なんたる失態だろう。

 心の内で自分を罵倒する。


 「申し訳ございません………出すぎた事を」


 呻くように謝罪を口にする朱衡に、尚隆は軽く笑い声を立てる。


 「そう深刻に謝るほどのこともない。すまぬと思うなら今宵一晩、酒に付き合え」

 「御意に」

 先ほどよりもずっと落ち着いた穏やかな声に促され、そっとその傍らへ進む。
 朱衡はそこで改めて、自分の無神経な言葉を死ぬほど呪った。


 尚隆の眼のふちは、僅かに赤くなっていた。
 満月の強い光が、皓々とその容貌を照らしていた。
 朝になれば寝不足とでもごまかせようが、今はまだ、その言い訳は使えない。


 この孤独な王は、一人で泣いたのだ。

 百年、主を見ていたから分かる。
 尚隆は麒麟を頼ることも、臣下を頼ることもない。
 王であることから。また、その性格から。誰かに頼ること、弱みを見せることをしない。


 もしかすると、今までもこうやってただ一人で泣いていたのだろうか。

 百年もの間、誰にもそれを悟られることなく。


 そう思うと胸が締め付けられるようだった。
 昼間に見る陽気で飄々とした主は、とても一人で泣くような殊勝な男には見えない。
 けれど、人は他人に見せることの無い一面を持つものだ。


 (どうしてこの方の悲哀に、孤独に、気づいて差し上げることができなかったのか!)


 今眼前にいる夜の尚隆を見ると、ますますその想いが強くなる。

 尚隆を一人で泣かせるくらいなら、この身を切り裂かれたほうがまだましだ。
 何もしてやれることがないもどかしさ。
 焦燥感に、呼吸すら満足にできなくなりそうだった。

 (ああ、そうか)

 これほど苦しいのは、悲しんでいるのが王だからではない。


 尚隆だからだ。


 朱衡は何も言わず、黙って尚隆の前に跪いた。
 

 自分の中でこれほどにこの主が大切になっていたことに、ようやく気がついた。
 それはけして許される感情ではないけれど、それでも尚隆の孤独をわずかなりとも癒したい。
 麒麟でさえも癒せない百年の孤独。この先も続くであろうそれを。

 「拙では役不足と承知の上で、誓約をいたしましょう。………拙は麒麟ではなく、ただの人にございますれば」

 夜の静寂に、ゆっくりと声が沁みこむ。
 怪訝な顔をする尚隆を眼で制して、続けた。

 「麒麟でなく人であればこそ、天命に縛られることはございません」

 だから。

 「不確かな、保証のない、拙の心のままの身勝手さで、主上を……尚隆様をお慕い申し上げております」

 どう応えるべきか分からず困惑し、無言のままに対峙する尚隆にむかって、晴れやかに微笑みかけた。
 命に代えても守るべき主へ、誰よりも恋い慕う目の前の人へ、誓いを立てる。

 「拙の王は尚隆様お一人。また、拙が誰よりもお慕いし、そのお心を欲するのも、尚隆様ただお一人にございます」


 その言葉に、尚隆が静かに眼を伏せた。

 ゆっくりと頬を滑り落ちる、ただ一筋の涙を見つめる。

 余人の知らぬ、美しく脆い、尚隆の心の欠片。
 自分以外に見たものはいないだろうそれを、目の奥に焼き付けた。

 月の光を弾いて煌くその雫をそっと唇で受け。
 もう二度と、一人で泣かせはしないという決意と共に、言葉を紡いだ。

 泣くならば、どうかこの胸で。腕で。
 私以外の誰が、その涙を拭うことができようか。
 目の前の王こそが、朱衡の最後の主だ。
 次の王の顔は見ない。

 我が君、我が王。
 朱衡の、唯一絶対の主。


 「我が心の命じるところによって、主上にお迎えする。御前を離れず、詔命に背かず、忠誠を誓うと誓約申し上げる」


 そして、ゆっくりとその足元に額づいた。


 朱衡の何もかもを、その前に投げ出して。




 「…………許す。」

 少し遅れて降ってきたその声は、僅かに震えていた。
 夜の静寂に溶けたその響きは、朱衡の中で生涯消えることのない光だった。
 



    2003.3.22(2005.11.12改稿)
 尚隆ファンならば誰でも一度はやってみたい、蓬莱の家族ネタ。
 これの類似品で小松の民ネタもありますが、これもいつかはやってみたい……。
 尚隆ほど過去が重い王は中々いないと思います。
 陽子と会うころにはもう少し開き直ってると思うけれど、根本は変わらないでしょう。アンビバレンツなお方。


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