――遠ざかる想いと帰る場所――
清潔そうな、白い壁の病室。
その中央にはベッドが一つ置かれている。
個室にしては随分と広い部屋の中には、ベッドの上の人物の友人知人とおぼしき人々が詰めかけていた。
固唾を飲んで見守る彼らは、無言で時を待っている。
僅かな緊張と期待の空気が、そこには満ちていた。
そして待ち望んだその時がやってくる。
ベッドに寝ていた人物がゆっくりと目を開く。
彼女は、久方ぶりの眩しい光に、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
ぼんやりと宙を見ている目は、やがてはっきりと覚醒の色を帯びていく。
焦点の合った瞳が天井を見つめ、さらに瞬きをもう一度。
薄紅色の少し乾いた唇から、かすれた小さな声が出た。
「もう、朝?」
彼女らしい気の抜けた第一声に、ベッドの周りから安堵と喜びの歓声が上がった。
大丈夫と言われていても、実際に意識がもどるまでは信用できなかった。
ミスマル・ユリカの眠りはとてもとても長く深いものだったから。
それだけに、目を覚ました時の周囲の喜びは大きい。
室内は今や完全にお祭り騒ぎだ。
感激して涙ぐむツインテールの少女と、その隣で滝のように涙を流す軍服の男性。
女性の手を握って離そうとせず、唇をかみ締める青年。
何度も黙ってうなずく大男。
抱き合ってよろこぶ3人の女性達と、祈るように胸の前で手を組んでいたそばかすの少女。
満足げに笑う栗色の髪の美女。
暖かい微笑みに包まれた部屋は喜びと幸福の空気が満ちていた。
目を覚ましたユリカに、口々に事情を説明しながら、時折誰ともなしに笑みが交わされる。
和やかな空気、明るい笑い声。
その白い病室は、心からの祝福によって彩られていた。
騒々しい部屋の中と裏腹に、廊下はシンと静まりかえっていた。
音がないからこそ、病室の様子が手に取るように分かる。
明るい雰囲気が伝わってくるドアの外には、一人の青年が立っていた。
闇のような黒衣に身を包み、肩からは同色のケープが流れる。
顔は光を反射するミラーシェイドによって覆われているため表情は分からない。
ただ、静謐な夜の空気を身に纏っていた。
声をかけるには躊躇する、人を拒絶するような空気を漂わせた男だ。
青年はドアノブに向かって手を伸ばし、一度だけ手を止めた。
迷うような、手を戻す素振りを僅かに見せてから、何かを振り切るようにドアを開ける。
騒がしい病室の中で、けして大きいとはいえないその音が、やけに響いた。
ベッドの周りを取り囲む人々がドアの開く音に一斉にそちらに目を向ける。
しん、と病室が静まりかえった。
「ほら、ユリカさん。アキトさんですよ!」
喜びに潤む金の瞳で優しく微笑んだホシノ・ルリは、次の言葉を聞いてその笑みを凍り付かせた。
「……この人はアキトじゃないよ?アキトはコックさんだもん。」
その言葉のなんと残酷なことか。
不思議そうな顔のミスマル・ユリカは何も知らない。
自分が捕らえられたことも、アキトが捕らえられたことも。
自分が意識を失っている間に遺跡の演算装置にされたことも、……アキトの身に降りかかった惨劇のことも。
そして、テンカワ・アキトがその後にどんな事をしたのかも。
無邪気な、無知であるが故に発せられた、他愛ない言葉だった。
だが、無知であるが故の言動が、人を傷つけるということは良くある話だ。
彼女のこの一言が、アキトが彼女に向けていた愛情に決定的な一撃を加えることとなった。
アキトがユリカを愛せなくなるのも無理のない状況ではあった。
なにしろ、ただでさえ精神年齢が高いとはいえないユリカである。
結婚した当時はまだアキトとの価値観もそう変わらなかったが、現在の二人の精神的な距離は大きく開いてしまっている。
5年の間に壮絶な体験をして、同年代の他の人間よりもはるかに思慮深く、大人を通り越して老成したともいえるアキトと、眠り続け夢を見続けたがために、幼子のごとき純粋さを増したユリカ。
ユリカにとって今のアキトはまるで知らない人間のようであり、アキトにとってのユリカはもはや恋愛対象ではなくなっていた。
愛がなくなったわけではない。
ただ、愛は形を変えてしまった。
アキトにとってのユリカは、今やホシノ・ルリと同じ『妹』か『娘』のような存在になりつつあった。
「……邪魔したな」
一言呟いて部屋を出ていく黒衣の青年。
その背中にかける言葉を、そこにいる全ての者が持ち合わせていなかった。
暗い眼をした黒い皇子が、もはや『コックのアキト』ではないことを、誰も否定できなかったのだ。
少なくともここにいる人間は、彼が殺した人の数を知っているから。
ただ、瑠璃色の髪の少女がその背に手を伸ばし、ついに届かなかった指先を、僅かに震わせた。
「帰ろう。ラピス君が待っているよ」
アキトが外に出ると、ドアのすぐ外側で壁に寄りかかっていたアカツキが声をかけた。
かつての仲間達の前に姿を現さなかったこの男は、ただアキトのためだけにこの場にいる。
度重なる戦いで過労気味のラピスは、今こんこんと眠っている。
アキトは少しでもラピスの負担を減らすため、一時的に五感をサポートするリンクを遮断してここへ来ていた。
どれほど強くとも、感覚に障害がある上にそれを補う補助もなくては、万が一何か起きた時に対処しきれるかどうか分からない。
この5年間、ごく稀ににアキトがラピスとのリンクを切るとき、アカツキは常にアキトの側にいた。
多忙な会長職につきながらも、そのための時間を捻出することを、アカツキは決してやめようとはしなかった。
アカツキにとってアキトは唯一無二だ。
自分の命よりも、大切な相手だ。
ナデシコ乗艦時代には、甘っちょろいお子様でしかなかった。
それが、いつしか友人となり、個人的に付き合いを深め、アカツキが、もしかして僕はテンカワ君のことが好きなのかな?と思った頃には、アキトはユリカと結婚することになっていた。
これだけなら、まだそう珍しいことではない。
男女の差異はあれ、巷によく転がっている失恋話である。
アカツキは苦い思いを飲み込むことになったが、それでもアキトの幸せを願って二人を祝福して送り出した。
しかし、この後に彼らを襲う悲劇を知っていれば、はたしてアカツキはどのような行動をとっていただろうか。
叶わぬ思いと諦めて、おとなしく身を引こうとしていた矢先。アキトとユリカがテロリストに殺されたと一報が入った。
それが始まりだ。
生存を絶望視されながらも、か細い糸のような可能性を信じてNSSを動かし続け、やっとアキトの消息を確かめて、救い出した時。
彼の身体は半壊し、精神に消すことのできない深い傷を負っていた。
外傷はまだマシだった。
目を背けたくなるような有様ではあったが、それらは皆直らないものではなかった。
問題は、その体に残留したナノマシン。
生きた人間の脳内さえ弄る行為など、どうして許されよう。
アキトの頭の中は、狂科学者の手によって、子供に与えられた玩具のように弄くりまわされていた。
味覚、嗅覚を失い、視覚は補助があってやっと明暗を判別できる程度。聴覚、触覚さえ危うかった。
ラピスとのリンクがなければ、残った感覚も今まで持たなかっただろう。
もはや治ることはないと、涙ながらにイネスに報告されたアカツキの怒りは凄まじいものだった。
復讐はアキトだけでなく、アカツキのものでもあったのだ。
アキトの苦しむ姿を逐一知っているアカツキは、その心身が不用意に傷つけられることに酷く敏感だ。
助け出したアキトの身に何がおきたのか、調べられる限りを調べ、アカツキは誓った。
もう黙って見ているつもりはない。
火星の後継者からアキトを救出したアカツキは、その体と心が壊れてしまう前に、助けだせなかった自分を責めた。
力及ばなかった至らなさを痛感し、せめてアキトのしたいことをさせてやろうと決意した。
そのためなら、他の人間など知ったことではない。
データ収集の為だと言い張り、アキトの復讐の為にユーチャリスとブラックサレナを用意した。
ナノマシンの開発のついでだからと、壊れかけた体の為にイネス・フレサンジュの研究をバックアップした。
クリムゾンの力を削るためだと言って、生き延びさせる為に最高の教師と訓練の場を選び出した。
機動兵器、船、医療技術。アキトには一流の技術と最高の物資が与えられた。
それらの全てはアカツキが用意したものだ。
アキトの復讐はその多くをネルガルの面々によって支えられてきたが、その中で最も大きな役割を担ったのがアカツキだった。
彼こそが物心両面において最もアキトを支えてきた人物だ。
幼いラピスでは、その心の闇を理解できなかったがゆえに。
彼は時間の許す限りアキトに付き合い、毎日様子を確認した。
自らの手を汚すことも厭わず、余暇の全てをアキトに捧げ、己の戦闘技術や操縦技術を磨くことさえした。
全ては、どんなことがあってもアキトを援けるため。
だから、ようやくなにもかもが終った今になって、アキトの心が傷つくのは許せない。
「帰る?どこへ?……俺に帰るところなどない」
自嘲するように嘯くアキトに、眉をしかめる。
何事もなければ陰から見守っているつもりだったが、部屋の中での出来事は見過ごせるようなものではなかった。
(よっぽど堪えたみたいだね)
モニター越しの客観的な眼で見ていたせいか、それともアキトに向ける想いのせいか。
一見まるで動じていないように見えたアキトだが、その心が深く傷ついたのがアカツキには手に取るように分かった。
ユリカの言葉と自分の気持ちの変化への衝撃だけではない。
部屋を出るときに結局は誰も引き留めることがなかった。誰も付いてこようとはしなかった。
声さえ、かけてはもらえなかった。
僅かに手を伸ばしたルリの姿は、アキトの眼に映ることはなかった。
かつて親しかった者達がとった態度は、僅かに残るアキトの柔らかい部分に爪を立てたのだろう。
口元を歪めるアキトを見つめて、アカツキはひっそりと笑った。
(誰も彼を捕まえないなら、僕がもらっていく)
もう二度と、アキトの乗ったシャトルが爆発した時のような気持ちはゴメンだった。
傷つき血を流す心に触れる度胸がない者は、そのまま離れた場所で見ているがいい。
そうして出来た隙間を、喜んで自分が埋めるだけだ。
血に塗れようと噛み付かれようと、共に堕ちていくことになろうとも構わない
この期に及んで諦めるつもりは、もうないのだから。
「同じ事をラピス君に言えるのかい?」
これは心に踏み入る一言だ。
アキトに言えるはずはないと、承知の上での言葉。
アカツキは、人間の本質がなかなか変わらないことを知っていた。
兄の死によって突然ネルガルの会長に就任してから、人間の汚い所を色々と見てきた。
自分がお綺麗な人間でないことを骨の髄まで自覚させられている。
アカツキが会長となって失ったものは数多く、得たものは少ない。
金銭や物的なものでいえばまったく逆だが、心理的には損ばかりだと思っていた。
ほんの少しの得たものの中の一つが、人間に対するわずかばかりの見識だ。
人はあまりに儚く、些細なことで恐ろしく変わってしまうものだ。アキトもまたその例の一つだろう。
けれど、それと反対の事象もまた真実。『ニンゲンそうそう変われるもんじゃない』ということ。
アキトがその経験から別人のようになろうとも、変わらないところもある。
身内に甘いこと、子供に弱いこと。ともすれば優柔不断になってしまうほどの優しさは、確かにその心の底に眠っていた。
「テンカワ君の帰るところはたくさんあるよ。ラピス君、ユーチャリス、イネス博士、エリナ君やプロス君、ウリバタケ君・・・・・・僕の側」
無言で俯くアキトに静かに語りかけながら、通りすがりにそっとその肩に手をおいて促した。
ほんの少しだけ、アキトの肩が震えた。
「帰ろう。たとえ君が何者になろうとも、僕だけは君の手を離さない」
アキトはアカツキの心を知っている。
自分にどのような想いを抱いているのかを。
復讐を本格的に開始する時、その口から直接告げられたのだ。
これからが復讐の始まりと見定めた時。
ユーチャリスやブラックサレナのデータをしっかり取ってくれと言った後で、まるでついでのように告白された。
軽い調子で『返事は分かっているからいらない』と言ったアカツキの笑みは、今でも心に残っている。
ついさっき、自分の家族がいなくなった。
ユリカもルリも、自分から遠い所にいる。
ラピスは大事だが、これ以上自分に依存させるわけにはいかない。
けして長くは続けられない『お父さん』役としては、早期の親離れを期待していた。
誰も周りにいない。
足元も手も血に染まり、復讐の後は虚無ばかり。
真っ暗な闇の中でただ一人立ち尽くしているような錯覚を覚えていた時。
突然その闇にアカツキが現れて、真摯な瞳で『僕は君の手を離さない』と言った。
それはつまり、今までアカツキがアキトの手を握っていたということ。
たしかにこの5年間、アカツキはアキトと並んで歩んできた。
ラピスの知らない汚い手段も、エリナの知らない裏の世界も、プロスの知らないアキトの弱音も。
ただ一人、アカツキだけが全てを知っている。
血塗れの手を無造作にひっつかんで、無理矢理にでも血溜まりから引っ張り出す。
アカツキの手も血に濡れているから、自分の手が汚れることを厭わない。
(結局、俺の心を本当に理解しているのはアカツキだけだったな)
ラピスのような一方的な依存とも、プロスや月臣のような罪悪感や贖罪とも、エリナのような思慕とも違う、深い深いアキトに対しての理解。
「俺はテロリストだ」
「僕はその黒幕だよ」
「人殺しだ。それも尋常な人数じゃない」
「お膳立てをしたのは僕だ。僕が人を殺したことが無いとでも思っているのかな」
「一応、妻帯者だ」
「まだ籍は入れてないんだろう?さっきの様子じゃ、これからもその予定はなさそうだし」
「体にガタがきている。もう長くない」
「では君は余命幾許も無い病人は恋をしてはいけないというのかい?病院でそれを言ったら半殺しにされるよ」
まるで逃げ道を断つかのごとく、否定的な言葉をさらに否定する言葉。
逃がさない、そう簡単に。
禅問答のようなやり取りのあとで、アキトが静かな声で言った。
「……後悔することになるぞ」
アカツキが、アキトさえ見たことも無いほど優しく笑う。
「するもんか。何年片思いしてきたか分かってるかい?」
それに対しての答えはなく、アキトはただ黙ってアカツキの背中を一つ叩いた。
こうして、アキトはアカツキの手を取った。
自分を理解し、対等な立場で共に歩んでゆける伴侶を、この瞬間にアキトは手に入れた。
残された時間はあまりに短い。
暴走する過剰投与されたナノマシンが、今も確実にアキトの身体を蝕んでいる。
だが、遠くない終わりを前にしながら、たしかにそこには得がたい半身を獲得した、幸運な二人がいた。
死の瞬間まで寄り添ってくれる者がいるという心強さが、どれだけ人を支えてくれることか。
愛する相手の終焉まで、その傍にいる資格を得たことが、どれほど喜ばしいか。
余人に知れぬ喜びを抱きながら、そこにいるのは確かに一組の恋人同士だった。
2003.4.14(2016.6.23改訂)
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