――たとえ死の陰の谷を歩むとも――




主が不在であることが多い雁州国では、その政務のほとんどが諸官の手によって処理されている。


 他国であれば王が決裁をすべき事柄であっても、その大部分が官吏だけで検討され、決断され、結果のみが報告される。
 他国ではまずありえない、雁独特の政治形態が確立されているのだ。

だから、たとえ王がいなくとも国政はきちんと運営されている。

 それは延王が、登極後の初期の段階から地味にコツコツつくりあげた体制だ。人柄に合わぬその堅実な姿勢を賞賛する声は少なくなかったが、能率的で実際問題としては大変効率のよいその体制が、朱衡は好きではなかった。




 別に、帷湍が言っているように、王が怠けるためにその体制を作ったのだと思っているからではない。
 尚隆はああ見えてやるべきことはきちんとする男だ。何かしでかす時は、責任のありかをはっきりとさせておくし、今の状態で大きな問題が出たこともない。
 なのに朱衡は、それが気に入らない。
 つまるところ王がいなくてもすんでしまうということ自体が嫌なのだ。


 官吏としては良くない考えかもしれないが、こればかりは感情的なことだからしかたがない。



 王が不在でも滞りなく政務が進む。そうなるようにしむけたのが、尚隆であるということが、悲しい。
 尚隆が、自分がいなくなった後を考えているようで。


 ・・・・・・そしておそらく、その考えは間違っていないのだ。


 ――――――――今の雁の国政は、王がいなくてもやっていけるのである。




 しかし、好悪の感情は別として、仕事はこなさなければならない。

 次から次へと沸いてくる仕事は中々減らず、最近は夜も官邸に仕事を持ち込んで、寝る間も惜しんで書類を片付けていた。


 朱衡は普段ここまで仕事に追われることはない。
 その有能さで着実にすべきことを行って、きちんと休むべき時は休んでいる。
 それが最近急に多忙になったのは、部下二人が視察中の事故で大怪我をしたとばっちりがきたせいだ。
  一人分引き受けるだけでもなかなかつらいが、それが倍になるともう手に負えない。怪我をした二人の仕事はその同僚にも分配されたため、朱衡の周囲はちょっとした混乱状態だった。


 しかしそれももう終わりだ。
休んでいたうちの一人が今日から仕事に復帰したし、明後日にはもう一人も仕事ができるようになる。
過剰労働から解放されるとあって皆ほっとしていたし、それは朱衡も同じこと。
 やっと一息つくことができる僅かな機会。
これを逃すと休暇をとることもできなくなるので、ここ二十日あまり続いた懸案事項が片付いたことをきっかけに、翌日から三日ばかり休みをとることした。



 いくら人手が増えたとはいえ、こまごましたことがなくなったわけではない。早々に帰宅しようと考えていたものの、結局事後処理のせいで帰宅は夜更けになってしまった。
 とりあえずやるべきことは一通りやったので、残りは部下に押し付けてきてしまった。少々上司に似てきたのかもしれない。


のしかかる疲労感と、いくばくかの満足感を背負いつつ、朱衡は久しぶりの休暇をどうやって満喫しようかと、官服の襟を緩めながら官邸に戻った。
 外から見ても灯りもなく寒々しく感じる我が家。
 冷たい房室も連日泊り込みであったためか、ひどく懐かしい。
 身体の芯にのこる疲労から、灯りをつけるのも面倒で暗闇の中を無造作に自室の奥へと歩を進める。
とりあえず予定は体を休めてから考えようと臥室の扉を開けたところで、ふと立ち止まった。



 臥牀の上に人の影がある。



 何者か、と緊張して、壁際にそっと身を隠す。
 しかし、かけようとした誰何の声は室内にふわりとともされた明かりによって立ち消えた。



臥牀の上で片膝を抱えて座っていたのは朱衡が誰よりもよく知っている相手だったのだ。



 すらりとした長身も座っている今は目立たない。
 こちらを向いた時に絹糸のように肩に流れた黒髪を、小卓の上に置かれた灯りがゆらゆらと照らしている。
見覚えがない形のその灯りは、彼が持ち込んだものだろう。




 「主上・・・・・・また随分と思いがけないご登場をなさいますね」



 「なに、ちょっとした用事があってな。そろそろお前が帰るころだと思って、待たせてもらった。」


 無断で入り込んだことを悪びれる様子もなく、面白がるような表情をする尚隆に、一つ溜息をついてから尚隆のそばへゆっくりと歩み寄った。
 尚隆は玄英宮にいる時の簡素な官服ではなく、青みがかった薄い夏物の袍を着ている。
 冷え込んでいるからか、ふわりと肩にかけた、透かし模様の入った白い薄絹は青い袍と黒髪にとてもよく似合っていた。
 その姿から察するに、夕方から姿が見えなくなったのはどうやら街へ降りていたせいらしい。


 「あいにくと拙宅には今ろくな酒がございません。肴もせいぜい辣菜程度です。それでよろしければすぐにご用意をいたしますが・・・・・・」


 辣菜は唐辛子入りの漬物のことだ。自分が酒のつまみにするにはそれで十分で、今用意できる食べ物といえば、茶請けにはなっても酒の肴にはなりそうもないものばかりだった。
 夜の来客、しかも尚隆である。
 茶よりも酒を出すほうがこの場に合っているのだが、ない袖は振れない。


 王に供する酒肴が粗末なものであるのは非常に不本意だが、実際のところ尚隆が不満に思うことはないのも分かっていた。
 即位した直後から比べると国庫は随分潤っているというのに、延王は相変わらず質素な生活をしている。
 尚隆は育ちがよいだけあって食べ物の味がわからないわけではないが、食えれば何でもいいという大変おおらかで大雑把な人間だった。
当然酒も、美味いに越したことはないが、最低飲めれば何でもいいと思っている。
 朱衡はそういった飾らない尚隆の気質をよく知っていた。
 だが、知っていてもやはり想い人をもてなす時くらい見栄を張りたいし、口にするものは良いものであってほしい。


 (今度からは酒と肴は常に良いものを用意しておくことにしましょう)


 なんといっても相手は尚隆だ。いつふらりと訪れるか分からないのだから、いつ来てもいいようにしておくしかない。
 朱衡が今後の対応策を考えていると、尚隆がひらひらと手を振った。


 「今日は酒はいらん。お前に食わせようと思って、街で買い求めたものがある。帰りがこれ以上遅くなれば無駄になっていたところだったが。」


 そういいながら小卓ごと引き寄せた灯りの影に、二つの硝子でできた小鉢があった。硝子の表面に浮いた水滴がきらきらと光を反射して、時間の経過を感じさせる。

 

 「これは・・・・・・砂糖氷雪、ですか?」


 ここ数年ばかり見たことのなかった代物に、朱衡は眼を見張った。


 幾分溶けかかってはいたが、それは確かに砂糖氷雪だった。


 砂糖氷雪は、冬季に貯蔵した天然氷を砕いて砂糖をまぶしただけのいたって単純な食べ物だ。
 雁の夏は涼しく、過ごしやすい季節ではあるが、日中ともなるとさすがに少しは気温が上がる。その僅かに上がった気温を楽しむために、関弓の街ではさまざまな夏の食べ物が商われていた。
いつだったか尚隆が冷元子を口にしながら、故郷でこれとよく似た白玉という食べ物があるという話をしてくれたのを思い出した。
六太が小童のように甘いものが好きなせいもあってか、尚隆はそういう菓子類が嫌いではない。
 この砂糖氷雪も、尚隆が面白がって買い求めたものだろう。


 「よく、溶けませんでしたね。」


 「水で濡らした素焼きの入れ物に、鉢ごとに入れてきた。『たま』は賢いから静かに飛んでくれるしな。」


 そう答えながらひょいと鉢を手に取る。チリン、と銀色の匙が揺れて硬質の音をたてた。
 さすがに匙まで硝子とはいかなかったようだ。


 「甘草で甘みをつけた氷水もあったんだが、こちらのほうが冷たかろう。」


 尚隆はにこにこと笑いながら朱衡に小鉢を一つ手渡した。
 無造作な仕草に中身を気にして慌てて受け取る。


 「ここ暫らく随分と忙しそうだったのでな。慰労だ。顔色が良くないのが気になっていたが、休暇をとったようだな」


耳に入った言葉の意味が、一瞬分からなかった。


 尚隆は玄英宮にいないほうが多い。朱衡が忙しくしていた間も、ほとんど寄り付くことはなかった。
 ここ二月ほどの間で、会ったことさえ数える程度。
 それなのに、尚隆はたった数回会っただけで、いつも疲れを外に見せない朱衡の体調に気づいたのだ。休暇をとったことを知っているということは、朱衡のことを気にしていたのだろう。


 (これだから、貴方を離すことができない・・・・・・)


 掻き立てられた胸のうちの想いに、眼が眩みそうになる。
 こうしてほんの少しでも自分を気にかけてくれる。特別視してくれている。朱衡はそれだけで、今自分は報われていると感じた。


 王は民のもので、延王は民を何よりも大切にしている。
それは何よりも尊い心で、そんな王を持てたことを雁の官吏として誇りに思う。
けれど、それとは別に、独占欲が疼くのもまた確かなことなのだ。
 どこかに閉じ込めて自分だけの物にしたいという愚かな恋心。
 一度でも本気で恋をしたことがあるものは、それを笑うことはできないだろう。



 彼が王でなければ問題はなかった。
 こうした愚かな恋心も、苦笑と共に見過ごされるだろうし、せいぜいがところ考えのなさを嗜められるくらいだろう。
 しかし現実に彼は王であった。
 誰かが彼を独占するということは、雁を滅ぼすことに他ならない。
 それは彼を殺すことと同じことだ。



 彼は誰の物にもならない。それが世界の理であるが故に。

 だが、『尚隆』は自分をこうして特別扱いしてくれるのだ。
 本来ならば、公人として相手を支えることができるだけで満足すべきであった。
想いを秘しておけなかったのは朱衡の罪であるのに、この許されざる想いに対して、尚隆は好意を返してくれる。
こうしてそっと差し伸べられる手を、朱衡は一生離すことはできないだろう。



 (たとえ何があろうと、私は貴方を離しはしない)



 朱衡は心の中で訴える。



 (たとえ貴方が、御自分を『必要のないもの』にしようとも、私には貴方が必要なのです)


 他の人間にとってどうであれ、朱衡には延王ではなく、尚隆が必要なのだ。
はじめに魅せられたのは王としての彼だったが、今の朱衡にとっては人間としての彼のほうが大切だった。
 強くて脆い小松尚隆。
 王ではなく、もはやこの世にはいないはずの『人間』。


 (貴方が、御自分の去った後の国を憂うなら、私もそれを案じましょう。けれど、貴方がこの世から消えた時、我が身もまたこの世にはありますまい。)


 口に出さない決意は、揺ぎ無い強さでそこにある。



 私が死ぬ時は、貴方がその役目を終える時。



 たとえ私が死の陰の谷を歩むことがあろうとも、私はその災いをおそれはしません。




 ――――――――貴方が、共にいるから。 




 朱衡は、何も言わずに尚隆に向かって微笑んだ。





    2003.7.5     大人の方は↓を反転・・・・・


 尚隆から手渡された、手のひらに痛みを覚えるほどに冷えた小鉢。
 臥室は、涼しい昼間よりもさらに気温が下がったせいで、いっそ肌寒いほどだ。
 それにもかかわらず尚隆が砂糖氷雪を持ってきたのは、仕事に忙殺されて季節の移り変わりにすら気づかない朱衡への心遣いだろうか。


 「・・・・・・ありがとうございます。」


 自分の分の小鉢を抱え込む尚隆の隣にそっと腰を下ろし、小鉢のふちに引っかかっていた匙で口へと運ぶ。
 口の中でするりと溶ける、冷たい冷たい氷。
 ほんのりと優しい砂糖の甘味が口の中に広がって、朱衡はえもいわれぬ心持ちになった。




   冷たい氷を食べる度に、心が温かくなる。
砂糖の甘味が甘い気持ちをもたらす。
一口一口噛み締めるように味わって、優しい沈黙の中で鉢を空にして、恭しく小卓に戻すと、朱衡は尚隆に向き直って改めて礼を言った。


 「大変美味しゅうございました。心から御礼を申し上げます」


 大げさな言葉に苦笑いが返る。実際、砂糖氷雪は小童が好んで食べるだけあって、けして高値な食べ物ではないのだ。
 王からの下賜品というには少々儚すぎる。文字通り淡雪のごとく溶けてしまうのだから。


 「そこまでたいそうな物でもあるまい。朱雀門側の州橋の夜市で購ったものだ、気に入ったのならば昼間にでも行ってみるがいい。六太によく似た生意気な豎子が売っている。」


 朱衡は朱雀門近辺の地理を頭に呼び起こした。最近はまったく降りていないが、関弓の街は以前にもまして栄えていることだろう。

 「朱雀門の側というと、竜津橋の辺りでございますか?」


 「そうだ。昼も夜もたいして変わらぬ物を商っているから、いつ行っても大丈夫だ。俺はもう帰るが、行く気があるならば明日にでも案内するぞ?」


 いつになく言葉が優しいのは、今日までの仕事の量を知っているからだろう。
 とりあえず今夜のところは外出せずに体を休めるがいい、と言って立ち上がろうとした尚隆の手を、朱衡がそっと引きとめた。
 いぶかしげな様子にわざとらしくにっこりと微笑んで、闇色の眼を覗き込みながら顔を近づける。


 「このようによいものを賜ったからには、何か御返礼をいたしとうございます」


 至近距離に顔を近づけられ、真綿のように柔らかで甘い声で囁かれて、尚隆は片眉を引き上げた。
 皮肉な口調で応じる。


 「激務だったのだから無理をしないで休むがいい。無駄に体力を消耗することはないぞ?」


 「無駄な体力などとんでもない」


 首を横に振ってから、トン、と尚隆の胸を押して、そのまま覆いかぶさる。
 朱衡の力を見くびっているのか、それとも自分の力に自信があるのか、特に抵抗するでもない相手の目元に一つ口付けを落としてから、目を細めて続けた。


 「御返礼でございますよ。明日、夜市に御同行させていただく分と併せまして、精一杯努めさせていただきます。」


 その言葉を聴いて、尚隆は暫く固まってから、その意味を噛み砕いてぎょっとしたように眼を見開いた。
 慌てて身体を起こそうとするが、いつの間にやらがっちりと抱えこまれているため、怪我をさせないように抜け出すのは至難の業だ。怪我をさせれば抜け出せるという武芸の腕を逆手にとった、見事な戦略だった。
 尚隆は仕方なく、とにかく朱衡の気持ちを削ごうと説得にかかる。


 「ちょっとまて、朝も昼も飛ばしていきなり夜市だと!?それまで一体何をするつもりだ!そんな返礼はいらん!!」


 「幸い拙めの休暇は明日から三日間ございます。初日の一日くらい臥室で過ごそうとも誰も文句は言いますまい。」


 (言われたところでで聞く耳を持つかどうかは別ですが)


 頭の中で余計な一言を付け加える
 いつの間にか衣の合わせから朱衡の手がさしこまれているあたり、もう完全に抵抗しても無駄という感がある。しかし、これから先のことを考えてぞっとした尚隆は、なおも諦め悪く言い募った。
言わないよりは言ったほうがまだまし、というところだろう。


 「俺が文句を言ってやる。人を殺す気か!?」


殺す、というのは穏やかではない表現だが、ここまでその気になった朱衡に、今までどんな目に合わされたことか。
 数々の悪夢を忘れていない尚隆にとっては、かなり本気の発言だった。
 比喩ではなく、死んでしまうかもしれない。
 当然死因は腹上死である。


 「主上は王であらせられますし、拙は仙でございます。これくらいたいしたことでございませんよ」


 はなはだ説得力に欠ける言葉を吐いてから、朱衡は尚隆の首筋に一つ赤い痣を残してこう言った。


 「尚隆様が必ず御満足されますよう、微力を尽くさせていただきます。とりあえず、明日の夜まで。」


 「・・・・・・っつ馬鹿、この、絶倫!!」


 ついには罵り始めた尚隆に比べて、朱衡は涼しい顔だ。


 「あまり外聞のよい言葉ではありませんね。そういう口はふさいでしまいましょう」






 そして、口をふさがれた。




 後に聞こえるのは時折洩れる吐息の声と、微かな衣擦れの音ばかり。







 結局朱衡と尚隆が州橋の市場に出向くことができたのは、休暇二日目の昼過ぎだったという。

     


    2003.7.5
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