他国であれば王が決裁をすべき事柄であっても、その大部分が官吏だけで検討され、決断され、結果のみが報告される。
別に、帷湍が言っているように、王が怠けるためにその体制を作ったのだと思っているからではない。
王が不在でも滞りなく政務が進む。そうなるようにしむけたのが、尚隆であるということが、悲しい。
・・・・・・そしておそらく、その考えは間違っていないのだ。
――――――――今の雁の国政は、王がいなくてもやっていけるのである。
しかし、好悪の感情は別として、仕事はこなさなければならない。
しかしそれももう終わりだ。
いくら人手が増えたとはいえ、こまごましたことがなくなったわけではない。早々に帰宅しようと考えていたものの、結局事後処理のせいで帰宅は夜更けになってしまった。
臥牀の上に人の影がある。
何者か、と緊張して、壁際にそっと身を隠す。
臥牀の上で片膝を抱えて座っていたのは朱衡が誰よりもよく知っている相手だったのだ。
すらりとした長身も座っている今は目立たない。
「主上・・・・・・また随分と思いがけないご登場をなさいますね」
「なに、ちょっとした用事があってな。そろそろお前が帰るころだと思って、待たせてもらった。」
無断で入り込んだことを悪びれる様子もなく、面白がるような表情をする尚隆に、一つ溜息をついてから尚隆のそばへゆっくりと歩み寄った。
「あいにくと拙宅には今ろくな酒がございません。肴もせいぜい辣菜程度です。それでよろしければすぐにご用意をいたしますが・・・・・・」
辣菜は唐辛子入りの漬物のことだ。自分が酒のつまみにするにはそれで十分で、今用意できる食べ物といえば、茶請けにはなっても酒の肴にはなりそうもないものばかりだった。
王に供する酒肴が粗末なものであるのは非常に不本意だが、実際のところ尚隆が不満に思うことはないのも分かっていた。
(今度からは酒と肴は常に良いものを用意しておくことにしましょう)
なんといっても相手は尚隆だ。いつふらりと訪れるか分からないのだから、いつ来てもいいようにしておくしかない。
「今日は酒はいらん。お前に食わせようと思って、街で買い求めたものがある。帰りがこれ以上遅くなれば無駄になっていたところだったが。」
そういいながら小卓ごと引き寄せた灯りの影に、二つの硝子でできた小鉢があった。硝子の表面に浮いた水滴がきらきらと光を反射して、時間の経過を感じさせる。
「これは・・・・・・砂糖氷雪、ですか?」
ここ数年ばかり見たことのなかった代物に、朱衡は眼を見張った。
幾分溶けかかってはいたが、それは確かに砂糖氷雪だった。
砂糖氷雪は、冬季に貯蔵した天然氷を砕いて砂糖をまぶしただけのいたって単純な食べ物だ。
「よく、溶けませんでしたね。」
「水で濡らした素焼きの入れ物に、鉢ごとに入れてきた。『たま』は賢いから静かに飛んでくれるしな。」
そう答えながらひょいと鉢を手に取る。チリン、と銀色の匙が揺れて硬質の音をたてた。
「甘草で甘みをつけた氷水もあったんだが、こちらのほうが冷たかろう。」
尚隆はにこにこと笑いながら朱衡に小鉢を一つ手渡した。
「ここ暫らく随分と忙しそうだったのでな。慰労だ。顔色が良くないのが気になっていたが、休暇をとったようだな」
耳に入った言葉の意味が、一瞬分からなかった。
尚隆は玄英宮にいないほうが多い。朱衡が忙しくしていた間も、ほとんど寄り付くことはなかった。
(これだから、貴方を離すことができない・・・・・・)
掻き立てられた胸のうちの想いに、眼が眩みそうになる。
王は民のもので、延王は民を何よりも大切にしている。
彼が王でなければ問題はなかった。 彼は誰の物にもならない。それが世界の理であるが故に。
だが、『尚隆』は自分をこうして特別扱いしてくれるのだ。
(たとえ何があろうと、私は貴方を離しはしない)
朱衡は心の中で訴える。
(たとえ貴方が、御自分を『必要のないもの』にしようとも、私には貴方が必要なのです)
他の人間にとってどうであれ、朱衡には延王ではなく、尚隆が必要なのだ。
(貴方が、御自分の去った後の国を憂うなら、私もそれを案じましょう。けれど、貴方がこの世から消えた時、我が身もまたこの世にはありますまい。)
口に出さない決意は、揺ぎ無い強さでそこにある。 私が死ぬ時は、貴方がその役目を終える時。 たとえ私が死の陰の谷を歩むことがあろうとも、私はその災いをおそれはしません。 ――――――――貴方が、共にいるから。 朱衡は、何も言わずに尚隆に向かって微笑んだ。 2003.7.5 大人の方は↓を反転・・・・・
尚隆から手渡された、手のひらに痛みを覚えるほどに冷えた小鉢。
「・・・・・・ありがとうございます。」
自分の分の小鉢を抱え込む尚隆の隣にそっと腰を下ろし、小鉢のふちに引っかかっていた匙で口へと運ぶ。
冷たい氷を食べる度に、心が温かくなる。
「大変美味しゅうございました。心から御礼を申し上げます」
大げさな言葉に苦笑いが返る。実際、砂糖氷雪は小童が好んで食べるだけあって、けして高値な食べ物ではないのだ。
「そこまでたいそうな物でもあるまい。朱雀門側の州橋の夜市で購ったものだ、気に入ったのならば昼間にでも行ってみるがいい。六太によく似た生意気な豎子が売っている。」 朱衡は朱雀門近辺の地理を頭に呼び起こした。最近はまったく降りていないが、関弓の街は以前にもまして栄えていることだろう。
「朱雀門の側というと、竜津橋の辺りでございますか?」
「そうだ。昼も夜もたいして変わらぬ物を商っているから、いつ行っても大丈夫だ。俺はもう帰るが、行く気があるならば明日にでも案内するぞ?」
いつになく言葉が優しいのは、今日までの仕事の量を知っているからだろう。
「このようによいものを賜ったからには、何か御返礼をいたしとうございます」
至近距離に顔を近づけられ、真綿のように柔らかで甘い声で囁かれて、尚隆は片眉を引き上げた。
「激務だったのだから無理をしないで休むがいい。無駄に体力を消耗することはないぞ?」
「無駄な体力などとんでもない」
首を横に振ってから、トン、と尚隆の胸を押して、そのまま覆いかぶさる。 「御返礼でございますよ。明日、夜市に御同行させていただく分と併せまして、精一杯努めさせていただきます。」
その言葉を聴いて、尚隆は暫く固まってから、その意味を噛み砕いてぎょっとしたように眼を見開いた。
「ちょっとまて、朝も昼も飛ばしていきなり夜市だと!?それまで一体何をするつもりだ!そんな返礼はいらん!!」
「幸い拙めの休暇は明日から三日間ございます。初日の一日くらい臥室で過ごそうとも誰も文句は言いますまい。」
(言われたところでで聞く耳を持つかどうかは別ですが)
頭の中で余計な一言を付け加える
「俺が文句を言ってやる。人を殺す気か!?」
殺す、というのは穏やかではない表現だが、ここまでその気になった朱衡に、今までどんな目に合わされたことか。
「主上は王であらせられますし、拙は仙でございます。これくらいたいしたことでございませんよ」
はなはだ説得力に欠ける言葉を吐いてから、朱衡は尚隆の首筋に一つ赤い痣を残してこう言った。
「尚隆様が必ず御満足されますよう、微力を尽くさせていただきます。とりあえず、明日の夜まで。」
「・・・・・・っつ馬鹿、この、絶倫!!」
ついには罵り始めた尚隆に比べて、朱衡は涼しい顔だ。
「あまり外聞のよい言葉ではありませんね。そういう口はふさいでしまいましょう」
そして、口をふさがれた。
後に聞こえるのは時折洩れる吐息の声と、微かな衣擦れの音ばかり。
結局朱衡と尚隆が州橋の市場に出向くことができたのは、休暇二日目の昼過ぎだったという。 2003.7.5 |
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