賜りものは謹んでお受け取りいたします



 「主上、こちらににいらっしゃいましたか」



 元旦の朝賀の儀からこのかた、目の回るような忙しさに追われていたが、さすがに五日ともなると玄英宮も落ち着きを取り戻しつつあった。
 今月半ばまでは年中行事が目白押しだが、優秀な雁の官吏が下準備をしっかりと行っているため、今年も手落ちはないだろう。


 主殿に近い内宮の回廊は、人通りも少なく閑散としている。
 尚隆は態々床几を引っ張りだして回廊に陣取り、手摺に寄りかかってぼんやり外を見ていた。



 「先程、お側に侍っているはずの成笙を見かけました。……このようなところではお風邪を召しますよ」



 朱衡が気遣うような言葉をかけた。


   いつもの皮肉が出ないのは、尚隆が年末年始の激務を遺漏なく、過分なほど完璧にこなしたからだ。
 その気になれば名君を十二分に演じることができる尚隆だが、今回は珍しく『その気』になったらしく、参賀に来ていた他国の使者が、感嘆の溜息を漏らしていた。


 沈みかける夕陽の赤い光を浴びているというのに、顔色がいつもより冴えないのは、光の加減や朱衡の見間違いではない。


 毎年のことながら、朱衡はいつもこの時期に尚隆の体調が心配になる。
 小童の姿を保つ延麒は元々体力があまりないため無理をさせられない。そして、その皺寄せはそっくり延王にやってくるのだ。
 神仙といえどもこういった種類の疲れはどうすることもできない。なにしろ肉体的な疲労ではないのだから。

 忙しさがひと段落する頃は、朱衡も帷湍も成笙も、いつもの小言が半分以下になっている。
 それほどまでに、年末年始の尚隆には過密な予定が組まれていた。





 常春の凌雲山でも、そろそろ日の落ちるこの時間に外にいれば身体が冷える。


 室内へと誘おうとする声に尚隆が反応しないため、朱衡は一旦下がって衣を取ってきた。
 そっと厚手の背子を渡すと、尚隆は黙ってそれを受け取る。
 ばさりと背に羽織ながら、ちらりと笑いを含んだ目線を向けた。
 朱衡は気づかないふりをして受け流す。


 過保護だ、と言いたいのだろうが、王が相手ならばこの程度のことは当然である。
 いっそ湯婆子でも抱えさせたいくらいだ。



   夕焼けが、ゆっくりと赤い光を投げかける。


 朱衡の元に、明日から大内の前で灯山の飾り付けが始まるとの報告があった。
 元宵節の準備が既に始まろうとしているのだ。  色絹で美しく飾り立てられたやぐらが完成すれば、夜間は無数の灯火が燈されることになる。
 今年も多くの見物人が集まるだろう。


   まだ先の話だが、これが完成する頃には元宵になっている。
 元宵節が完全に終われば、正月も終わりとなる。 


 しかし、正月の冠冕と礼服ではなく普段の官服を身に着けた朱衡からは、新年のお祭り騒ぎの名残が一足早く消えていた。
 まだ玄英宮で官服を身に着けているものは少ない。
 礼服を着ていないということは、今日は対外的な仕事はもうないということだろう。
 その証拠に、朱衡は立ち去ることなく尚隆の脇に控えている。



 「大分お疲れのご様子でございますね」


 「疲れもする。女御達にここぞとばかりに飾り立てられてな。一日中ろくに身動きもとれん有様だ。」



 うんざりしたように返事をする尚隆も、諸国の使者や諸州からの進奏の役人が退出したのを見計らって、平服に着替えている。
 延麒六太も、職務から開放されたとたんに重い冠や装飾品を放り出して姿をくらませてしまった。
 軽装に着替えた痕跡があるので、もしかして街へ降りたのかもしれない。
 尚隆の今の服装も、まるで街を歩く下っ端武官のようだが、こちらは関弓に降りる気配はなさそうだった。


 毎年毎年元日を過ぎた途端に何とかして逃げ出そうとする尚隆だが、実際に玄英宮を出たことは一度もない。
 口先だけで、けして本気ではないのだ。
 尚隆が本当に抜け出そうとしたならば止められはしない。
 参賀の合間に息抜きと称して庭院に出るようなことはあっても、いつもその仕事を投げ出すことはなかった。



 「本当は三日までに関弓へ降りたかったんだがな」


 「またそのような戯言を。帷湍が気合を入れておりますし、成笙も目を光らせております。そう容易くは抜けられますまい」



 外敵や不審者よりも脱走に備えるというのは、雁ならではの仕事だろう。
 玄英宮の防備は他国の賞賛を浴びるほどに堅いが、どのようにしてか、いつもいつも尚隆に抜け出されてしまう。
 そのために雁の夏官はますます腕を磨くことになるのだが、王の脱走阻止が抜き打ち訓練になっているというのは少々恥ずかしいことではある。



 「なに、手はいくらでもある。掌固の甘い角楼があってな。あの脇を抜ければ出られよう」


 「場所をお伺いしておきましょうか。より一層、警戒を厳しくするように伝えておきますので」



 すました顔で返す朱衡に、尚隆が苦笑する。
 そう言われて正直に言う人間がいるだろうか。
 戯れるような軽口が、静かな回廊にやわらかく響いた。





 つい、と目の前を通り抜けた鳥を目で追いながら、尚隆がふと思いついたように口を開いた。



 「角楼(やぐら)といえば、馬行街や潘楼街では五彩の棚(やぐら)を作るそうだな」



 馬行街や潘楼街は、首都である関弓内の地名だ。


 府城の東南の隅に東角楼という関弓一の商店街があるのだが、そこから東へ行くと潘楼街で、庶民向けの安価な商店や芝居小屋などが立ち並んでいる。
 また、潘楼から更に東の土市市という十字路を北に行けばそこが馬行街で、都でも屈指の繁華街だ。
 妓楼が遥か先まで軒を連ね、人馬の往来が大変に盛んな場所で、尚隆の馴染みの酒楼もここにあった。


 ここ暫らく遠ざかっていたにもかかわらず、思いのほかはっきりとした街並みが朱衡の頭に浮かんだ。


 突然の話題転換に内心驚いて困惑しつつ、それでも静かに言葉を返す。



   「ええ。確か東の宋門外や、西の梁門外の踴路、北の封丘門外でも作りますね。南部一帯でも作っていたように記憶しておりますが。・・・・・・それがどうかなさいましたか?」


 「以前、小耳に挟んでな。冠りものや真珠、翡翠、衣裳、領抹・・・・・・服飾品の店がずらりと並び、色鮮やかに目を楽しませてくれるそうだ。舞や歌の演戯場からは笑いさざめく声が絶えず聞こえ、賑やかに年賀の車馬が馳せ交うと」



 頭に思い描くように宙を見つめながらとうとうと語る尚隆は、優しく穏やかな顔をしていた。
 遠い昔、朱衡も確かにそれを見たことを思い出す。
 その頃の朱衡は挙人だった。
 慣れぬ二梁冠を頭上に乗せて、青い縁どりをした白袍を翻して浮き立つ心のままに街を歩いたものだった。
 今となっては昔のこと。
 それでもあの優しく明るい風景は、長く続いた暗い時代に、民のために働く原動力となった。


 一瞬の追憶は、声を優しくさせる。



 「主上は、一度も御覧になったことがございませんでしたね・・・・・・それ故に街へ降りたいと仰ったのですか?」


 「まあな。正月の関弓を見たかった。先月の頭に、豊楽楼で相席になった男があまりに褒めるものだから、余計に見てみたくなった」

 「豊楽楼?」

 「馬行街の白礬楼は知っているな?建て増しした時に改称したんだ」


 「ああ、あの礬楼のことでしたか。・・・・・・しかし、見たいと仰せでありながら、今年も街へはお行きにならなかった。・・・・・・何故でございますか」



 中秋節にも重陽にも清明節にも、頓着をしない尚隆が、正月だけは必ず玄英宮で迎える。
 まさか新年くらいは『我が家』で迎えようなどと殊勝なことを考えているわけではないだろう。
 それほど可愛らしいタマでもない。
 ちゃんと理由があってここへ帰ってくるのだ。


 尚隆は無言で朱衡を軽く睨んだが、それくらいで怯むような人間はそもそも延王の側近にはいない。



 尚隆が、何故正月だけは戻ってくるのか。
 薄々予想はついているが、朱衡はそれを尚隆の口から聞きたかった。
 毎度毎度はぐらかされているばかりでは面白くない。



 「・・・・・・・・・お前は、分かっているだろう」

 「ええ、存じております。多分台輔もご存知であられましょう。ですが、拙は、尚隆様からお伺いしたいのです」



 にっこりと微笑む線の細い顔には、何か奇妙な強制力があった。
 呼び名が変わるのは、朱衡の中で何かが切り替わった証拠だ。




 尚隆は暫らく瞑目してから、小声で答えた。


   この男にしては珍しいほどに小さな小さな声。



 「正月くらい、何も起こらぬように、俺が此処にに居るべきだろう」


 「何も起こらぬよう。何が起こってもよいよう。・・・・・・それは、民のお為ですね?」



   傍らに立つ朱衡が腰を屈めて、尚隆の顔を覗き込みながら問いかける。
 声は優しかったが、聞きようによっては揶揄するようにも聞こえた。
 案の定、言質を取るようなその物言いに、尚隆は露骨にそっぽを向いた。
 しばらく顔を背けていたが、尚も目で促す朱衡に、不機嫌そうに低い声で返す。


 「ああそうだ!民でも百官でも麒麟でも同じだ。俺がここに居るだけでいくらかは天候や気候が安定するし、『天下の安寧』とやらに役立つ。どういうわけか悪巧みをする連中も減るし、遊郭の妓女どもはいつもより愛想がよくなる!いちいち言わんでもお前は分かっているだろうが!」



 立て板に水というよりは、むしろまくし立てるような勢いで関係のないことまで述べてから、尚隆は完全に臍を曲げた。
 くるりと、身体ごと向きを変えてしまう。


   まるで延麒のように小童じみた仕草だ。
 見るからに不愉快そうな横顔を見ながら、朱衡はいとおしげに微笑んだ。


   これまでもこれからも、玄英宮は代わり映えもしない年中行事を繰り返すだろう。
 だが、民にとっては数十年の一生、数十回の正月。
 それを平穏に迎えられるのは本当に嬉しいことだ。


   新年くらいは尚隆の本音が聞きたかった。
 それが叶えられたのだから、今年も良い年になるだろう。


   そっと尚隆の傍らに膝をつき、手を取って口付けを落とす。



 「ええ、よく分かっております。それでも時折、確かめたくなるのですよ・・・・・・拙めは小心者でございますゆえ、常に御心を確認したくなるのです」



   尚隆は皮肉げに笑い、流し目をくれた。
 先程の小童じみた仕草とはガラリと趣きが変わる。
 回廊を吹き抜ける風が頬にかかる黒髪を靡かせた。



 「いけしゃあしゃあとよく言うものだ、主人に向かってこれほど遠慮のない人間が。答えてやったのだからせめて明日からの式典では少し手を緩めろ」



着飾った際に、女御に化粧までされたのだろう。
 落としきれなかった目元の紅が涼やかな目元を縁取って、流し目をより一層艶めかせる。


 「では、元宵には街へ降りましょうか。灯山見物の人波に飲まれぬよう、豊楽楼に席をしつらえましょう。もちろん拙もお供させていただきます」


 「元宵?十五日は行幸、十六日は出御だろうが。」


 物見遊山になど抜ける暇はない。
 行幸も出御も、珠簾の中で蹲っているだけの仕事ではないのだ。
 替え玉も迂闊に使えないし、そもそも民の前に顔を出すのだから、尚隆が抜け出すことはない。


 「元宵節は十八日まで。最終日は拙が空けさせます」



 朱衡がやると言ったらそれは絶対である。
 できないことはそもそも言わないので、これは間違いなく予定を空けさせるだろう。
 十八日は比較的予定が少ないとはいえ、朱衡の部下は正月早々とんだ災難に遭うことになるが、尚隆は笑って頷いた。



   「珍しいお前の誘いに乗ってやろう。まあ、正月だしな」


 「ええ、拙めの年賀と思し召しください」



   思わぬ好事に尚隆の機嫌が上向きになる。


   今後の企みに思いを馳せ、二人でにやりと笑いあったところで、尚隆が一つくしゃみをした。
 先ほどよりも風が強くなっている。


   話し込んでいるうちにすっかり日が落ちて、辺りは闇に包まれていた。


 少なくとも元宵まではまだ新年の行事が続くのだ。
 街に下りれば完全に冬で、玄英宮よりもはるかに寒い。
 尚隆は、風邪をひいてはつまらないとばかりに背子を羽織り直し、床几から立ち上がった。


   主殿へ戻ろうと二、三歩歩いたところで、足を止める。


 振り返ると朱衡が床几を室内に放りこんだところだった。
 とりあえず置いておいて後で片付けに来る気だろう。
 手を払ったところで立ち止まる尚隆に気づいて、すぐにその側へと近寄る。



   「堂室まで御供いたしますか?」


 「供はいい、後で酒を持ってきてくれ。・・・・・・ああ、そんな顔するな。今日は一滴も飲んどらんのだ、大目に見ろ」


 「では、酒蟹と雉肉でも添えてお持ちいたしましょう」


 「杯は二つ」



 尚隆は訝しげな朱衡の頬に手を添え、何の脈絡もなくいきなり接吻した。


   柔らかな唇。
 暖かな吐息。伝わる温度。
 離れる際に見えた、微かに震える睫。


 ほんの僅か、触れるだけのものだが、尚隆が自分から朱衡に口付けたことなど今まであっただろうか。 





 朱衡が石のごとく固まった。






   「お前への新年の祝いだ」






 触れるだけの可愛らしい口付けとは裏腹な、不敵な笑いをうかべると、尚隆はそう言い捨てて悠然と主殿へ向かって去っていった。
 固まったままの朱衡は置き去りである。 





   後に残された朱衡は、尚隆の姿が完全に見えなくなってから、一気に顔を赤らめた。
 へたりとその場に蹲って口元を押さえる。


 顔の熱さと驚愕と歓喜に混乱しながら、朱衡は動くことができなかった。





   「・・・・・・・・・・・・っ、結構な・・・・・・賜りものを・・・・・・」





   いつもの減らず口が出ないほどに狼狽しているが、掌で覆われた口元はどうしようもなく緩んでいる。
 ああ、本当に新年早々幸先がいい!!







    その夜主殿の小臣は、酒瓶と肴と二つの杯を運ぶ、酷く足取りの軽い楊朱衡を見たという。


    2004. 1. 4 (2004. 1. 8 改稿)
 新年、あけましておめでとうございます。
いや、年末祖母が亡くなりましたので本当はめでたくないんですが・・・・・・
 何はともあれ、本年もよろしくお願いいたします!なんとなくカウンタも回ってるし!!
 そうそう、今回は・・・というか今回も、遠い昔の学生時代の資料に随分頼りました。東洋文化史専攻万歳。朱衡の服にもちゃんと意味があります。 
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