暗夜に灯火

暗夜に灯火




  背中を押す、夕陽



 夕暮れ時になっても、うだるような暑さは相変わらずで、べたついた空気が漂っている。

 十二国の中では比較的夏が過ごしやすい雁だが、ごく稀に、こんな酷暑が襲ってくることがあった。




 この夏は暑さによって倒れたものが既に百人を数えたという噂だが、毎年出てくるそんな大げさな話も、今年はやけに信憑性がある。
 昼間の熱気を体感すれば、一笑に付すことはできない。


 それくらい、暑かった。


 それでも商売人というのは強いもので、この暑さを逆手にとって商いに余念がない。

 流れる水のおかげでいくらか涼しい橋の袂辺りでは、物売りが薬木瓜だの水木瓜だのをせっせと売りさばいている。
 青い布を張った日傘で覆われているのは元州産の金桃か白桃だろうか。
 中元節にはまだ間があるのに、お供え物を売り始めているところまである。


 尚隆は、平穏な関弓の夕暮れを、緑に塗られた妓楼の窓枠に腰掛けて見下ろしていた。
 のんびり酒を飲んでいると、時折風が眼下の街路から喧騒を運んでくる。


 (この暑さにもかかわらず、関弓の街は随分と元気だ)


 耳に心地よい、昼間よりも抑えられた街のざわめきに、思わず笑みがこぼれた。

 街路に沿って目を走らせれば、まだ日も落ちきっていないのに、いくつかの酒楼では煌々と篝火を灯している。
 仕事が終わって家路を急ぐ者や、さっそく酒を飲みに店を探す者。
 夕食を買い求める者が広い道を足早に行過ぎる。
 家への近道のつもりだろうか、暗くなる空と競い合うように、小童達が大急ぎで歓楽街を駆け抜けていった。



 「なんとも平穏で平和な光景だな」



 ここ1ヶ月というもの、範の様子がキナ臭いということであちこち国外をうろついていた。

 色々と探ってみた結果、実際にはっきりとした何かの兆候があったわけではないようだ。
 しかし、入ってくる何気ない噂話や各国との国交の様子は、尚隆に奇妙な胸騒ぎを感じさせた。
 おそらくほかの人間にも、どことなく違和感のある範の様子に気づいているものがいたのだろう。
 そうでなければ不穏な話が尚隆の耳に届くことはない。

 少々憂鬱になりながらもやっと自国に帰り着いたはいいが、日が落ちる前に宿舘をとれなかったため、結局妓楼で一夜を明かすことになった。
 踏んだり蹴ったりである。

 今夜の宿舘となる妓楼は、普段尚隆が利用している豊楽楼でも会仙楼でもない。
 二階建の、中堅どころの店である。
 疲れた体と心を休めるために、花娘も呼ばずに一人で菜などつまみつつ酒を飲んでいると、ふと窓から入る風に誘われて外の様子に目がいったのだ。

 酒もつまみも安いものだが、眼下の街並みは格好の酒の肴だった。
 長く国を離れていたせいか、それとも範の不穏な気配を感じていたせいだろうか。
 夏の暑さに負けずに頑張る、他愛ない民の日々の営みが何よりも尊く愛しく感じられて、尚隆はようやく落ち着いた心持で杯を干しはじめた。


 (範が倒れるにしてもあと数年、いや、十年は持つだろう。その間に備えをすればいい)


 雁と範の間には恭と泰がある。そう影響を受けるとは思えないが、準備はしておくべきだ。
 取り越し苦労ですむならばそのほうがいい。




 今夜はここでのんびりしてから玄英宮に戻ろうと考えていると、突然房間の外から声がかかった。



 「失礼いたします」
 


 妓楼の者の声だろうが、おずおずと妙に遠慮がちだ。
 入れ、と一声かけると申し訳なさそうに中腰でこちらへ来た。


 「花娘は呼んでいないぞ。それとも『たま』になにかあったか?」

 「いえ、お客様の騎獣はちゃんと繋いで餌を与えました。そうではなくて」


 酷く歯切れが悪い。


 「言いにくいことか」


 いえ、と再度言葉を濁してから、妓楼の若い男はおもむろに用件を述べた。


 「お客様。その、・・・・・・む、『無謀』とおっしゃる方から、御文が届いているのですが・・・・・・」


 聞いて、尚隆は、口に含んだ酒を噴出しそうになった。どうやら馬鹿げた字のせいで伝えるのをためらっていたようだ。



 (無謀だと?普段その字を使わぬくせにこのような時ばかり。・・・・・・意趣返しか?それにしても何故俺が帰ってきたのがわかったのだ)



 朱衡がどのようにして尚隆の帰国と宿泊先を知ったのか。
 それは関弓の門卒に『風漢』の風体を伝えて、使いの者に連絡させるように命じただけなのであるが、朱衡の小細工を尚隆は知らない。
 杯を置いて立ち上がった尚隆は、戸惑う妓楼の者に近寄って手を差し出した。


 「どれ、文とやらを見せてみろ」


 使いを遣したのではないから、火急の用事とは考えられない。だが、珍しく文など寄越すあたり、それなりの理由があるはずだ。
 尚隆は好奇心を掻き立てられ、若者が下がると同時に、手早く渡された文を開いた。



 
    『茅台酒が手に入りました。』




 「………………。」


 紙を裏返してみたが、他には何も書いていない。

 茅台酒は、数年前に山客が製法を持ち込んだ高級酒だ。
 毎年数本ずつ玄英宮に収められているが、量が少ないためにすぐになくなってしまう。


 「それは確かに飲みたいと言ったが………」


 なぜこれしか書いていないのか。
 雁を出る前に何気なくもらした言葉を覚えていてくれたのは嬉しい。が、この手紙ははっきり言って不気味だった。

 もしかしたら、怒っているのだろうか。

 尚隆が国を空けた後の朱衡は大概怒っている。しかし怒り方の違いというのがあるのだ。
 喋りながら怒る朱衡は怖くないが、黙って怒る朱衡は少々面倒だ。
 何も言わないかわりに後で何をされるか分からない。


 (できれば帷湍や成笙がいる時に帰りたかったんだが・・・)


 三人で叱るときの朱衡の怒りは説教に傾くことが多い。しかし二人でいる時の朱衡は無言になりがちなのである。
 だから尚隆は人が多い時間帯を狙ってに帰ってくるか、真夜中にこっそり玄英宮に戻ることが多かった。
 

 「まぁ、仕方があるまい。居場所も知れたことだしな」


 文を読んだにもかかわらず明日の朝に帰ったりしたら、報復の度合いが増すだろう。
 あまりいい話ではないが、範のこともある。
 尚隆は今日のうちに玄英宮に戻ったほうがよいと判断し、残っていた酒を飲み干してから、ゆっくりと身支度を始めた。
 完全に日が落ちてから下へ降りると、日没前よりも随分と気温が下がったようだった。
 例年よりも暑いとはいえ、日中と比べればまだ涼しい。
 

 「さて、怒られにいくか」


 ぽつりと呟いて、妓楼の者を呼び寄せる。
 ところが、房間を借りたままで今日のうちに出立すると告げると、妓楼の主人はあっさりと応えた。


 「もう騎獣のほうのご用意はできております。『寄り道せずにお帰りください』とのご伝言です」
 

 宿代はとうに支払われ、たまの支度の指示までされているあたり実に計画的である。


 (何を考えているのやら・・・)


 美しい顔に青筋を立ててにっこり笑う、見慣れた朱衡の怒り顔を頭に浮かべて、少し苦笑する。

 これは後が怖そうだ。

 尚隆は舞妓や花娘がよく歌う小唄をくちずさみつつ、風のごとき速さでたまを走らせた。










 小臣の毛旋に手引きさせて玄英宮に戻ったころには、すっかり夜になっていた。




 走廊を歩くと人目につくので、わざわざ遠回りの道を選んで歩く。

 あまり、というかほとんど知られていないのだが、正寝の西側にある園林は、尚隆の堂室に隣接する庭院と繋がっているのだ。
 禁門にも抜けられるので、尚隆は好んでこの道を使っていた。


 「足元が暗いな…………」


 そうぼやいてから、小さくくしゃみをした。

 玄英宮は凡そ一定の気温に保たれているのだが、夜になると急に冷え込む。
 仙は病気や怪我に強いものだが、寒さを感じないわけではない。
 街を歩いた夏の装いのままではいささか薄着が過ぎた。

 寒さを嫌って少し足を速めると、自分の堂室に着く前に、おかしな所に灯りがついているのに気がついた。




 自室につながる庭院の四阿に、灯りが燈っている。




 即座に気配を殺してそっと木陰に身を潜めると、目を凝らして様子を伺った。
 剣柄に手をかけ考える。


 (六太………いや、賊………?内部の者が手引きしたか………あるいは何か謀の計画でも立てているのか)


 不在が長すぎただろうか?
 この程度の期間国を空けたとて、びくともしない基盤を作ったと自負していたが、自信過剰だったのか。
 尚隆が国を出た時点では不穏な動きはなかったのだが。


 (いや、いくらなんでもこんな場所を選ぶ阿呆もいるまい。万が一にも見られたら言い訳のしようがない)

 
 王の自室からそう遠くないこの場所に、こんな時間に入り込める人間は多くない。




 王、麒麟、王の側近、小臣、庭師。




 六太ならあのようなところで待ってはいまい。王気を感じることができるのだから、とっととこちらに向かってきているはずだ。
 庭師が作業するには暗すぎて手元が見えないし、手元を照らすには灯りが弱い。大体、夜の花を丹精するには数刻ほど遅い。
 小臣でもない。夏官の巡回経路からはここは少々はずれすぎだ。



 「ああ、もしかすると・・・・・・」


 これは、まさか・・・・



 尚隆はくくっと笑って、木陰を出るとそのまま無造作に歩き出した。
 迷いのない歩みだ。

 たとえ相手が凄腕の刺客であろうとも、早々引けはとらない自信はある。
 何より、あそこにいる人間が自分の考えた相手である確率のほうが、敵が待ち構えている可能性よりも遥かに高い。

 近づいてゆくにつれ大きくなる光に、僅かに目を細めた。
 灯りは梁から下げられているようで、人の形の影は輪郭だけが浮かび上がっている。



 影の数は、一つ。



 それが何者かは分からない距離だが、尚隆は笑みを深めて歩みを速めた。
 自分の予想が当たっていたという確信と共に。


 みるみる近くなる灯り。
 もう、あれが誰だかはっきりと分かる。
 立ち上がって、四阿の入り口で尚隆を待っているのは、彼だ。

 四阿の真ん中には石案が一つ。
 その上に銚子がいくつか、酒の肴とおぼしき銀の椀が四つ、五つ。
 その向こうにも何かあるようだが、はっきりと見えるのは、灯火の光を照り返して輝いている



 玉杯が、二つ。


 
 

 「朱衡!」
 


 四阿は曲水に囲まれているが、尚隆は橋を渡らずそのまま飛び越えた。
 



 「主上!小童のような真似をなさって………」


 膝をついて拱手する朱衡は、小言を言いながらも顔が笑っている。


 「堅いことを抜かすな。それより、文が届いた時は随分と驚かされたぞ?」

 「それはそれは、小細工をした甲斐がございました………さあ、こちらへ。それでは御身体が冷えます」


 わざわざ尚隆のために用意したのだろう背心をそっと肩に掛け、石案のほうへ手を引いた。
 用意された酒は、文にあった茅台酒なのだろう。
 美酒の放つ馥郁たる香りが立ち上っている。



 「どういう風の吹き回しか知らんが、こういう気まぐれは大歓迎だな」
 
 「左様でございますか?ずっと玄英宮にいらしていただければ、この程度のことはいつでもいたしますが」


 ふん、と鼻を鳴らして肩に掛けられた背心に袖を通すと、乱暴に床几に座った。


 「いつになく長い御不在で、雁のことなどとうに忘れてしまわれたかと思っておりました」


 朱衡は静かに近づくと、石案の上の灯りにも火を燈した。
 明るさが増す。


 「そう恨み言を言ってくれるな。当分の間大人しくしているから」


 尚隆の言葉に、朱衡はふと眉を寄せる。


 「何が問題が?」

 「範が不穏だ。踏み留まってくれればいいが、このまま行けば………数年もしないうちに妖魔が出始めるだろうな」




 最後の一歩を踏み出さねばいいが。



 口の中で呟くが、同時に無理だろうな、とも思った。


 おそらくは止められまい。
 本人も、周囲の者も。麒麟でさえ。

 一度崩れだしたらもうどうすることもできない。
 せいぜい崩壊が加速度的に進む前に、元を絶つくらいしかできない。
 そういうものなのだ。
 だかこそ、持ち直した王というのは歴史に残る。希少であるからこそ名が残るのだ。



 立ち直った王は余りに少ない。

 



 朱衡は、妖魔が。と繰り返すと痛ましげに目を伏せた。
 僅かな間の後すぐに顔を上げて尚隆に伺いを立てる。
 他国の不幸を嘆くよりも、まず自国のことだ。


 「……それでは、対応策を練っておきますか?隣接しているわけではありませんが、余波は来るでしょう」

 「任せる。範の今後が見極められるまでは腰を落ち着けるから、何かあれば言え」


 そこで、話は終わった、とばかりに尚隆は玉杯を一つ持ち上げた。

 荒い動作が苛立ちをあらわにしている。


 尚隆が手を伸ばす前に、朱衡がすかさず銚子を引き寄せ、慣れた手付きで杯に注ぐ。
 酒の香りが一層強くなり、夜風の冷たさを僅かに和らげた。
 なみなみと酒で満たされた玉杯が重みを増す。

 杯の中で揺れる酒を見て、何かを悼むように目を閉じると、尚隆は杯を口に寄せた。

 
 「尚隆様」


 す、と白い手が、尚隆の腕を引き止めた。
 たいして力が籠められているわけでもないのに、何故か逆らえない。

 さあ呑もうという時に待ったを掛けられ、不機嫌に睨むと、朱衡は静かに笑っていた。
 薄い色の目が灯りの下で赤みを増している。
 

 「他国の情報も結構ですが、お帰りあそばしたばかりで、そのように顰め面をなさるのはお止めください」


 そして、少し悪戯めいた色を覗かせながら言葉を続ける。


 「ご懸念は御最もですが、こうして御酒をご用意してお待ち申し上げていた拙を哀れと思し召しならば、せめて一言、仰ってください」 
 

 穏やかな声音でそう言われれば、なるほどもっともだ。
 ようやく『我が家』に帰ってきたのだから、もう気を抜いてもいいのだ。
 結構な出迎えもしてもらったことだし、たまには言うとおりに従うのもいい。


 
 「待たせたな。今、帰った」


 
 帰宅の言葉。
 口にすると同時に、夕方に見た関弓の街を思い出した。


 暑い中でも元気に、闊達に、日々を一生懸命に生きる民。
 夕陽に溶ける優しい街の風景が、鮮やかに蘇った。
 小童達が串風路を駆け抜けてゆく足音さえも、耳に聞こえてくるようだ。




 雁の、尚隆の子供達。




 雁の民を守るためならどんなことでもしよう。
 それが王の務めで、尚隆の存在意義なのだ。
 だが、今は彼らを見習って、もう少しだけ素直になってみようか。 


 氾王のように、辿るべき道を間違えぬように。
 




 「  ただいま  」





 返されたのは、優しい優しい笑み。

 夕陽の残滓にも似たほのかな明かりが、やわらかく微笑む朱衡を照らし出す。
 一瞬、夏の夕暮れに時間が戻ったような心地になった。



 「おかえりなさいませ………お帰りを、お待ちしておりました」



 あの小童達も、仕事帰りの男達も、この言葉を聞いただろうか。
 この声があれば、道を間違わずにいられるだろうか。



 『待つ者がいるから、帰ってくるのだ』



 脳裏に浮かんだそんな言葉に、尚隆は思わず苦笑した。
 範の様子をずっと気に掛けていたせいか、随分感傷的になっているらしい。
 自分らしくもない。
 
 それでも、朱衡の言葉は心地よく。
 尚隆は、その言葉を身の内に流し込むように、勢いよく杯を乾した。


 


 空になった玉杯は、それでも淡い灯りを、柔らかく映していた。


    2004. 8. 11 


 時代は氾王呉藍滌の前の代くらいで。ちなみに時期は中元節(うらぼんえ)前。旧暦ですよ。
 題名は、ことわざ「暗夜に灯火を失う」から。闇の中で明かりを失うように、頼りにしていた人や物を失って途方に暮れるという意味です。尚隆の灯火は、雁の民で、朱衡なんだよ、という……すいません、六太もいれればよかった……。
 最初は徒然草の「夏は夜」の言葉から、完全に夜の話にしようとしていたので、その名残もあります。「暗夜」のあたりが(笑)その流れで、夕暮れなら秋かなーと思ったんですが、窓から見える夕陽が大変綺麗だったので、なんとなく夏の夕方から夜にかけての話になりました。
 さらりと作った話なので、設定等に無理があったらBBSでそっと教えてやってください……。
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