ゴォ―――ン……


 鳴り始めた除夜の鐘に、滝川は作業の手を止めて耳を澄ました。
 この音を聞くと、本当に今年も終わりなのだという実感が沸いてくる。
 子供のころから朝な夕なと数え切れないほど聞いてきた音だが、年の瀬のこの鐘は、いつだって特別に思えた。


My Sweet Home



 年末年始はどう過ごすのかと聞いた滝川に、リンは僅かに肩を落として実家に帰らなければならないのだと言った。
 一緒にいらっしゃいますか、と問われて、パスポートの期限が切れていると返したのは嘘ではない。
 実家にはいくつか空き部屋もあるし、気兼ねするようであればホテルを用意するとまで言ってくれたリンは、もしかすると来て欲しかったのかもしれない。
 しかし、すまないとは思いつつも、滝川は首を縦に振ることができなかった。
 
 ………期限が切れているのは本当だが、翌日にでも申請すれば更新ぐらいできた。
 そうしなかったのは、怖かったからだ。
 

 リンは日本人が好きではない。
 はっきり言って嫌いだ。

 それを頭から否定することは、滝川にはできない。
 日本にだって外国人の、特に有色人種への根強い忌避感があるのを知っているからだ。
 最近では中東や東南アジアの人間に対しても、誰かの目の中に謂れのない蔑みを見つけることがある。
 自分では差別などしていないつもりでも、無意識にあんな目をしているかもしれない。
 そう思うから、滝川はリンに苦言を呈することはない。
 リンが自分を好いてくれているということだけで充分だと、そう思っている。
 
 だが、リンの実家にいくのは、怖い。

 ホテルに泊まるにしたところで、挨拶はすべきだろう。
 帰省するリンに同行するならそれが当然の礼儀というものだ。

 問題はその先にある。
 日本人を嫌いなリンの家族は、日本人である滝川を紹介されてどう思うのか。
 人格は環境に強く影響されるから、リンを育てた家族も日本人を嫌いな可能性は高いだろう。
 ならばほぼ間違いなく滝川は初見で嫌われる。
 恋人を……もちろんそう紹介はしないだろうが……家族に嫌われたリンが、どんな気持ちになるのかと想像すると、とてもじゃないが行く勇気が出なかった。

 人に嫌われたくないというエゴがあるのは認める。
 でも、それ以上にリンに嫌な思い、辛い思いをさせたくないし、重荷にもなりたくないのだ。
 麻衣くらいに若ければ、ただまっすぐに思いのままに動けたかもしれないけれど。


 リンのふるさとは……帰るところは、家族のところだから。
 家に帰ったときぐらいはくつろいで、心穏やかにゆっくりと過ごして欲しい。


  ゴォ―――ン……


 「大人になるってのは辛いねぇ」

 鐘の音に消えるほどに小さな声で呟いて、割り箸の袋を三つ抱えると台所を出た。


 
 リンと共に行かなかった滝川の選択も、また帰省だった。
 年末の寺といえば除夜の鐘だ。人出はいくらでも欲しい時期だから、帰れば歓迎される。
 髪を切る気はないと言うと、あたりまえのように裏方に回された。
 いくつになってもどこか子ども扱いされているような気がするが、そんな雰囲気はくすぐったくも暖かい。

 (できればリンもこんな気持ちでいるといい)

 一緒に年を越せないのは残念だが、家族に迎えられてのんびりと新年を迎えられたら嬉しい。
 そう、ぼんやりと考えながら、少し早く歩く。
 長身の滝川が大股かつ早足で歩けば、あまり大きくもない境内のこと、たとえ台所からでも行きたい場所には1,2分でたどり着く。

 「……法生」

 「兄貴、割り箸」

 境内の一角、やけに人の多いこの場所には、いくつかの焚き火と巨大な鍋が並んでいて、台所と比べると随分暖かい。
 その焚き火や鍋の奥で使い捨て容器を数えていた下の兄が、滝川の気配に気付いて顔を上げた。 

 滝川の実家では、除夜の鐘を突きに訪れた参拝客に対して無料でけんちん汁を振舞う習慣がある。
 今年も例年通りに鍋を用意したのだが、滝川が使い走りを引き受けたため、同じように雑用にまわされた下の兄はここで延々と鍋の用意をし続けることになってしまった。ちなみに上の兄は衣着用の上で父とともに鐘突きの補佐をしている。
 台所より過ごしやすいとはいえ少し申し訳ないと上を向けば、ご苦労さんという言葉と共にわしゃわしゃと頭を撫でられた。
 もしかしたら、めったに帰ってこない弟を未だに子供だと思っているのかもしれない。

 「せっかく戻ってきてくれたところ悪いが、もう一度行ってくれ」
 
 「ん。何がたりないんだ」

 「使い捨て容器。廊下にあるから二袋ばかり持ってきてくれるとありがたい」

 本堂の横の廊下のことだろうか。
 ぼんやりと思い出してみると、確かに大きなビニール袋に包まれた白い塊がおいてあったような気もする。
 まだ鐘の前に数十人はいるから、補充は必要だろう。

 「……ついでに茶の一杯も飲んで来い。準備のころから少しも休んでいないだろう」

 言われて、確かに少し疲れていたのに気付く。
 片付けまで考えるとあと数時間はかかるから、素直にここで一息入れたほうがいい。 

 「そうだな。ちょっと裏で休んでくるわ」

 ひらり、と手を振って戻る背中を押すように、低い鐘の音が鳴った。



 
 板張りの廊下は恐ろしく寒い。
 台所だって暖かいとは言えないが、それでもここよりはマシだ。
 ひんやりとした床板の冷気が靴下越しに体温を奪っていき、背筋を上る寒気にぶるりと身を震わせた。

 (骨にしみる……)

 どうせなら温泉にでも浸かりながら言いたいセリフだ。 
 こんな寒い場所にいつまでも居たくない。
 とりあえず容器だけ担いで台所に戻ろうと、踵を返したとき。
  
 ポケットの中に突っ込んでいた携帯が鳴った。

 
 「え、うわっ!」


 慌てたせいで容器の袋をとり落とすが、それよりも今は電話だ。
 かじかみ震える手でポケットを探り、急いで携帯電話を引っ張り出す。
 
 (この着信は、リンからだ)
 
 リンの電話は着信音を変えてあるから、間違うことはない。
 麻衣に付き合ってコロコロと着信を変えて遊ぶ滝川が、決して変えない普遍の電子音。
 事務的でいかにも無機質なその音こそが、滝川の特別だった。


 「……はい」

 喜びを込めて電話に伝えれば、返る応えは耳慣れた低い声。

 『私です』

 それだけでほっと息をついてしまうくらいに嬉しい。
 電話の向こうにいる相手を思い浮かべながら、弾む声を抑える。

 「よう。こっちは随分冷え込んでるぜ」

 言いながら廊下の窓越しに外を見れば、空には星が出ていた。
 晴れている日は気温が下がるが、晴れ渡った冬の夜空は本当に美しい。
 空気が澄んでいて、気持ちも綺麗になるような気がする。

 『声が震えているようですが、まさか外にいらっしゃるんですか?』

 「だいじょーぶ。一応室内だから」

 嘘は言っていない。
 外より寒いが、室内ではある。

 『………滝川さんの、御自分に関する「大丈夫」はあまり信用ができません』

 「ひでぇ」

 (俺、そんな苦々しげに言われるようなことしたっけ……)

 思い当たることはないのだが、もしかして何かしていただろうか。

 『ともかく、用件をお伝えします』

 滝川の葛藤をよそに、低い声は先ほどとうってかわって優しいトーンで言葉を紡ぐ。
 
 『家族は黙らせましたから、三日の朝の便に乗れるかと思います。都合がつくようでしたらご自宅で待っていていただけますか』

 続いた言葉に、少なからず驚く。
 たしか滞在は五日までだったはずだが、何かあったのだろうか。
 声からすると事件や事故の類ではないだろうが、家族を黙らせるという言葉に不穏なものを感じる。
 まさか自分との関係が知られて責められてでもいたのか。

 「仕事か?何かトラブルでも……」

 『いいえ。ただ、早く帰りたかったので』

 そう言われて、思わず息を呑んだ。
 

 帰りたい、と。

  
 あのリンが、そういってくれるのか。
 

 気温など関係なく頬が熱くなるのが分かり、携帯を持っていない手で思わず顔を押さえる。
 暗闇の中、一人でいられて幸運だった。
 幸福感ににやける顔を引き締めようと苦心するが、どうしても口元が緩む。
 こんなところを家族に見られたら、絶対に追求されたに違いない。

 『そちらは、今一月一日になりましたね。……あけましておめでとうございます、であっていますか』

 「え、ああ、あってるよ。あけましておめでとう」

 そこでやっと日付が変わっているのに気付いた。


 新年だ。

 新しい年がやってきた。リンと共に過ごす新しい年が。
 除夜の鐘は未だ鳴り止まないけれど。年を、越した。 

 (そういえば香港は時差があったな)

 確か、マイナス一時間の差があったはずだ。
 ならば彼はわざわざこちらの年明けを気にして電話をかけてきてくれたのだろう。
 国際電話は高いのに、などと野暮は言わない。

 「そっちはまだ23時か。こっちは一足早く年を越しちまったな」

 『ええ。ですから、もう一つの常套句は帰ってからお伝えします』

 なるほど、向こうとこちらで年が違うなら、今年もよろしくはまずいかもしれない。
 そういうことを気にする几帳面さがリンらしくて、滝川は微笑んだ。

 「了解。楽しみにしてるよ」

 『はい。では、風邪を引かないようにお気をつけください』

 優しい気遣いに笑みを深め、新年のものではなく、年末の挨拶を返す。
 できれば直接言いたいあれこれは、大事に心にしまっておく。

 「早く帰ってこいよ、リン。よいお年を」

 想いの比重がどちらにかかったかは、言わずもがなというものだ。

 そうしてそっと、電話を切った。




 
 本当は三が日実家で過ごすつもりだったけれど、二日には帰ろうと思う。

 家族と過ごす時間よりも恋人と過ごす時間をとってしまうことに少々罪悪感がないではないが、そこは労働で償うということで勘弁してもらおう。

 (早く帰るからには、気合を入れて働かないと)

 冷蔵庫は空にしてきてしまったから、帰りがけにスーパーにでも寄っていかなくては。
 ああ、実家からちょっといい酒を貰って帰るのもいいかもしれない。
 前日に下ごしらえをして、正月らしい手の込んだ料理を作って。

 そうしてリンを出迎えて、おかえりと言うのだ。  
 


2006.12.31



 後書き  ↓ 

 ま、まにあった………!!
 ギリギリ2006年12月31日、後書き作成中の現在は23時34分です。
 今年中にUPできそうでほっとしてます。旬のネタですからね。
 あ、作中でリンがぼーさんの『大丈夫』を信用しないのは、吉見家事件で背中に大怪我しててもわざとふざけて見せたりしてたからです。
 ぼーさんは周りの人のためにやせ我慢するタイプですよね。
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