大山祇(おおやまづみ)大神。
 またの名を吾田主国主事勝国勝長狭命(あたぬしくにぬしことかつくにかつながさのみこと)。
 霊峰・富士の神体、木花開耶姫(このはなさくやひめ)の父神でも知られる、日本建国の大神のひとり。和多志大神(わたしのおおかみ)とも呼ばれ、地神・海神兼備の霊神であり、農業・漁業・航海・鉱業の神でもある。
 特に水軍の守護神として信仰を集め、殊、中世戦国期の諸大名に長く崇められた。



- 海神の舟 -





 雁州国、関弓。
 首都州・靖州内のやや北部に位置し、王おわします宮城・玄英宮をその頂上に戴く関弓山がそびえる、国都である。
 足許に延々西の黒海へと続く国内随一の大河・漉水を抱え、十二国でも有数の禄高を誇る「北」の大国は、現延王践祚より既に五百年を数えていた。
 延王尚隆は、長きに渡って歴代延王の懊悩の種であった、漉水の治水に成功した賢帝である。「漉水を制す者は天下(てんが)を制す」とまで云われたこの大河は、肥沃な土をもたらすことと引き替えに、大規模な洪水によって幾たびも人民の命を奪い、故に漉水の治水工事は「王事」の最優先事業とさえなっていた。「王事」とは読んで字の如く、王にのみ為し得る一大国家事業である。
 かつてこの地にて「崑崙」と呼ばれる中国の春秋戦国期、度重なる氾濫で周王国を悩ませた大河のひとつ黄河(またの名を河水)の治水に、唯ひとり成功した男がいる。
 大商人「白圭」その人である。
 彼は以前の名を風洪といい、当時の大国「斉」の君主を時の宰相・田氏が失脚せしめた折り、前主の臣であった風氏もまた没落したが、彼はその嫡男であったと云われる。
 壮絶な運命の流浪の果て、商人・白圭として人生を再出発した彼は、剣客としても知られた研ぎ澄まされた特異の勘によって莫大な財を為し、それらのすべてをつぎ込んだのが、歴代の周王ですら成し遂げることが出来なかった、黄河の治水事業であった。が、これは完全な篤志活動(ボランティア)であり、周王の知るところではなかった。
 長大な中華の歴史において「王事」を実現させ得た者は、後にも先にも白圭だけである。賈人になろうとも彼に備わる「王気」を天は見逃さず、希有な才覚に救恤の手を差し伸べたといえる。
 奇跡の顕現から二千年余、遙かな時空を超えてこの雁国に、再び「奇跡」を起こした男が現れた。それも、東の果て―――蓬莱より渡ってきた男が。



 その夜、関弓に幾棟も並ぶ花館のひとつ「紅桃館」の一室にて、賑々しい酒宴が催されていた。
 華美な衣服に身を包む姦しい女たちの嬌声が上がり、合間を縫って笛や太鼓が滑稽な音を響かせ、幇間(たいこ)らの歌と噺は尽きることがない。
 上の座に泰然と腰を下ろす男は、それらの騒ぎを眺めては時折呵々大笑し、並べられ美酒美膳を鷹揚と味わっていた。
 長身の男である。
 美装であるが貴族然とした柔さは欠片ほどもなく、むしろ武家の棟梁と呼ぶに相応しい面構えである。が、剛の者と括るにも目鼻立ちに隠しようもない貴稟(きひん)が滲み、頭頂でひとつに結った長い黒髪の艶やかな翳りが、男の体貌が含むなまめかしい、ある種の色香を際だたせているかに見えた。
 「酒が足りぬな」
 男は妙味と雅味が渾然となった男くさい声で一言呟き、脇に控える顔なじみの女将を呼んだ。
 「斐媼(ひおう)、酒と氷を頼む」
 「肴核(肉と果物)は足りましょうや、風漢様」
 女盛りをとうに過ぎたが、枯色にあってもいまだ口許に妙やかな色を残す女将は、「媼(ばば)」と呼ばれることなどとうに慣れたものらしく、慍色ひとつ見せずにほほと笑貌を見せた。
 「ほぉ、俺の懐より腹具合を気にかけるか、媼」
 「もとより風漢様に払いの期待なぞしておりませぬ。それに、今宵の酒宴はいつぞやお願いしました、荷の護衛の御礼にございますれば」
 「ふふ、俺には商いの神がついているそうな。俺の護衛する荷はただの一度とて、賊に襲われたことがないと専らの噂になっているようだが、たまたま運が続いただけに過ぎぬのかもしれぬぞ」
 「運が続くこと自体、風漢様に福の神がついている証左にございましょう」
 「福の神ときたか。なれば供物に美々しい人身御供でも所望したいところだが」
 徒めいた表情で口角を上げた男に、女将はほんのりと笑む。
 「なれば孕んだ御子は天子として頂きまする。末永く館に豊かな財をもたらしてくれましょう」
 「はっは、そなたには敵わぬ!」
 朗らかに笑い、男は届いた酒を座の一同に振る舞った。
 「それにしても、相も変わらず遊びの巧い御方だ」
 馴染みの幇間がひとり、男が「風に当たってくる」と席を立ったところで、女将にひそりと囁いた。
 「金払いはともかく、粋で侠気がおありで腕も立つ、その上美男だ。のぉ女将、風漢様はいずこの御方か存じておるか?」
 「たとえ大尽の放蕩息子であろうと身ひとつの傭兵であろと、あの御方は館の上客。それに、花館に揚がれば氏素性なぞ合切関わりないこと」
 「ふむ、道理。しかしわしはあの御方を好いておる。お傍にてお仕えし、身辺のお世話を願いたいものだがなぁ」
 「そう願うておるのは、なにも超救殿ばかりではございませんでしょう。しかしあの御方は風、誰にも捉えられぬのが定め」
 「風、か」
 閉じられた華燭の扉の向こう側に、幇間はどこか憧憬めいた視線を注いだ。
 館の露台にひとり風を受けて佇立する男は、月明かりに影絵の如く蒼い風景から切り抜かれたような、天を突く関弓山の稜線を見上げる。
 「あひにあひて物おもふときのわが袖は、やどる月さへぬるるがほなる・・・か。さて、誰の詠んだ歌だったか」
 手にした煙管を口許に運びかけ、ややあって薄い苦笑とともにそれを懐に戻し、そうして、黒い瞳に得も言われぬ悲哀を宿すや瞼を伏せた。
 もはや袖を濡らす泪も涸れ果てた。栄枯盛衰、万象の理も今や遠く、ひとりこの地に立って、俺は今更なにを偲ぼうというのか。
 すべては夢。
 わだつみの守護も、この身には届かない―――



 「お留守・・・で、いらっしゃるのか」
 戸惑い気味に上げた翡翠の両目を前に、内殿にて出迎えた朱衡は怜悧な美貌に幾ばくかの気鬱を浮かべて、ゆるりと首肯した。
 「まことに、なんとお詫び申し上げたらよいものか・・・」
 声音に苛立ちと諦めが半々。
 他国の、それも誼の深い慶国の主が御訪問あそばしたというのに、我が主のなんといううつけ振り。
 言外に朱衡のこんな毒を聞き取って、陽子はその心労を慮りつつも苦笑を禁じ得なかった。
 あの破天荒な王は、蟻一匹出入り出来ぬはずの堅牢な宮を、まるで風のようにすり抜けてしまう術でも持っているらしい。
 「昨夜より宮を空けたまま姿を眩ませておりまして・・・いえ、今、使いの者を急ぎ向かわせております。よろしければ四阿にて、粗茶粗肴なりとおもてなしを」
 「いや、お気遣いは無用です大司寇。借りていた本を返しにきただけですから」
 そう云って陽子は、小脇に抱えていた分厚い教典のような本を一冊、手の上に乗せた。
 「御自ら・・・?」
 仄かな喜色をそこに見て、陽子はたまらず狼狽えた。
 「あ、あの、借りたものを自分で返しにくるのは、至極当然のことだし、だからその・・・」
 「それでは、やはり主上がお戻りなるまで、景王には今しばらくのご逗留を願い奉り申し上げます」
 「朱衡さん、そのぉ・・・」
 「誰かある。景王に茶席の用意を」
 「だから私は・・・」
 ひとたび動き出したこの麗人の、並ならぬフットワークの良さは承知していたが、殊、それが延王絡みとなると一切留め立てが適わない。
 あれよあれよと四阿のある雲海沿いの瀟洒な露台に連れ出され、切り出した白亜の岩座に絹の敷布が設えられ、艶と光る円卓に並んだ美麗の茶器から薫り高い芳香が馥郁と立ち昇り、目の前にはにこにこと破顔する朱衡がいた。
 どうもこの国の、特に王の周囲を与る高官たちは、自分と彼らの主に何某かの「期待」を抱いている節がある。なにせ台輔からして初対面から、自分を指して「妻か?」とのたまったくらいである、たまったものではない。
 朱衡の艶やかな笑貌に力無く笑い返し、どうやって帰国の理由を取り付けようか考えあぐねていると、背後から気安い声がかかった。
 「いい匂いがするかと思ったら、こんなところで茶会か」
 「延麒」
 「よぉ、久しいな陽子。どうした今日は」
 件の雁国宰輔、六太が、片手の桃にかぶりつきながら、ひらりと身を躍らせ陽子の隣に落ち着いた。
 「台輔、またそのような」
 盛大に渋面を作る朱衡にひらひらと手を振り、
 「あーわかったわかった、此度景王御自らお越し頂き、まこと足労おかけ申し上げたこと恐悦至極に存じタテツマリ、あれ?タテマリツリ、おや?えーっと・・・」
 「元気そうでなによりだ」
 「おぅ、おまえもな!」
 陽子の助け船で六太の難渋は取り払われ、朱衡は更に眉間を深く寄せる。
 「先日借りた本を返しにきたんだ。あいにく延王はお留守とのことだったから、大司寇に預かっていただこうと思ったんだけど・・・」
 「無理矢理ラチられて、にわか茶会が催されたわけか」
 にやにやと底意地悪そうに六太は笑い、
 「ここにいるヤツらにゃ尚隆よりおまえの方が人気があるのさ」
 「ふむ、それは否めませんな」
 これには朱衡も同意した。
 「ついでにおまえが輿入れでもしてくれりゃ、雁の安泰は確実だ。ま、野合でよけりゃの話だが」
 「冗談もほどほどにしてくれ」
 「まこと景王が主上の手綱を握ってくだされば、あの放蕩癖も少しは落ち着くものを」
 いよいよ六太の弁に朱衡が乗り出したのを見かね、陽子は慌てて話の腰を折ろうと手許の本を卓に置いた。
 「とにかく本を預ける。延王にお渡ししてほしい」
 「あいつが帰ってくるまで待ってりゃいいだろー?」
 「こう見えて私も多忙の身なんだ。今回は政務のひとつとしてまかりこしたまで」
 「ちぇーっ」
 仏頂面の陽子に六太は口をとがらせつつ、渡された本を預かった。
 「なんの本です?」
 興味をそそられた朱衡が、珍しく問うた。
 「造船と、操船に関してものした本です」
 「慶で船を造る計画が?」
 「いえ、まだそこまで国庫に余裕はありませんが、私は雁の優れた船を何度も目にしている。いずれ海上での輸送や貿易に本腰を入れるとき、雁の造船技術を取り入れたいと考えているんです」
 「なんと殊勝な」
 「この世界は外海と内海にぐるりと囲われている。陸上輸送より海上輸送の方が遙かに効率がいい。コストの面からもそれは明らかだ。発展させれば新たな産業も生まれる、国内GNPの伸び率にも加速がつく。今各国が行っている海上輸送の全体的なシェアがどれほどかパーセンテージを出させているが、造船と併せて機能的なコンテナの開発も視野に入れて・・・」
 「陽子、陽子」
 舌に熱の入る陽子の腕を六太がつんつんとつつく。
 「朱衡がマッシロケー」
 「え、あ?」
 美貌の秋官長は、目を白黒させながら聞き慣れぬ言葉を反芻しいしい、頭の中をひねくり回している。
 「こんてな・・・じーえぬぴー・・・ぱーせ、ん・・・???」
 「あの、ええと・・・」
 「勉強家だなぁ陽子は」
 六太は心底愉快そうに大笑いした。こんな朱衡の姿なんぞ、そうそうお目にかかれるものではない。
 「まぁ造船にしろ操船にしろこっちの得意分野だ、いくらでも協力してやるよ。なんせあいつ自身がその大家みたいなモンだからな」
 「そうなのか?」
 素直な疑問を投げかける陽子に、六太は妙に大人びた(実際陽子より遙かに"大人"だが)面差しを向け、不敵に笑んだ。
 「元"海賊"だぜ、尚隆は」
 ああそういえば、と、陽子はいつぞや聞かされた延王の出自について思い出していた。
 「そーいや、昨夜っからあいつの姿、見てないな」
 「どうやらまたお降(くだ)りになっているようです」
 苦々しい朱衡の言葉に六太は吹き出しかけ、不意に、目許を引き締めた。
 「・・・そうか、昨日か」
 「なにが、ですか?」
 「いや・・・」
 それから隣の陽子を見つめ、六太は低く呟いた。
 「小松の一族が、滅亡した日、さ」
 朱衡の息を呑む微かな呼気が、淡く立つ湯気をかき乱した。



 寄せては返す雲海の、遙けき波頭の白い影を、陽子と朱衡は並んで見つめていた。
 「主上との婚儀を望むのは、なにも下世話な理由ばかりからではありません」
 顔立ちと等しく怜悧な声を、陽子はさざ波の合間に聞いた。
 「主上には、欠けたものがある。それがなんなのかは私には・・・いえ、"私たち"にはわからない。もしかしたら郷里を無くした寂寥かもしれず、あるいは親しい人たちに置き去りにされる、人ならざる者故の孤独かもしれない。いずれ、私たちでは立ち入れぬ胸裡の影を、主上は抱えておられる」
 壮麗な衣服の袖を風になびかせ、朱衡は首筋に纏わる後れ毛を払った。
 「主上にはそれでも、運命を等しくされる台輔がおられた。主上と同等の欠けたものを台輔もお持ちであり、だからこそあのおふたりの間には、いわば"戦友"にも似た絆が結ばれておられる」
 「戦友・・・」
 「そしてそれは、景王、あなたもお持ちのもの」
 どこかすがるような朱衡のまなざしから、陽子は惑うように逃れた。
 「あなたが添ってくだされば、主上の欠片は埋まる」
 「・・・」
 「身勝手な言い分とわかっております。これは臣(わたし)の単なる思いこみで、仮に添うたところでなにがどうなるわけでもない、むしろ、その可能性が遙かに高い。けれど・・・臣は願うのです」
 「・・・なにを?」
 「主上の、救いを・・・です」
 「大司寇は、延王を敬慕されていらっしゃる」
 「はい。実に口惜しいことですが」
 朱衡らしい返答に陽子は笑んだ。
 「延王は情深い方だ。剣把を交えれば鬼神の如く恐ろしい男であるはずなのに、平素の延王はまるで童子のように朗らかで、老爺のように大らかだ」
 「はい」
 「私も延王をお慕いしている」
 「・・・」
 「でもそれは多分、大司寇がお望みのようなものとは、少し、違うだろうと思う」
 緋色の髪が風に光った。
 「なまぐさみを抱くにも延王は私より遙かに大人の男で、一方で私は"女"になる前に久遠の命を賜った。私は男でもなければ女でもない、実に中途半端な人間だ。だから、恋情とは無縁の精神が宿っている。この先も同じかどうかはわからない。もしかしたら延王をひとりの男として見、愛そうとする日がくるかもしれない。けれど・・・」
 「・・・けれど?」
 「延王を真に救う者は、私ではない」
「私の生まれた蓬莱国というのは、様々な神話がある国でね」
 不意に陽子は声音を和らげ、朱衡にとって摩訶不思議な話を語りはじめた。
 「その話の中にスサノオノミコトという、蓬莱国ではよく知られた神様がいる。スサノオは我が侭で粗暴な神で、親神から祖国を追放されてしまう。天界を混乱させたスサノオは罰として髪を切られ髭を刈られ、手足の爪まで抜かれてしまった。あまりに哀れな姿になったスサノオを、ひとりの神が同情して、ご馳走を振る舞ってあげたのだけど、それが神の口から吐かれた物だと知ったスサノオは激怒して、大恩あるその神を殺してしまう」
 「随分と身勝手な神ですね」
 「うん、その通りだ。けれどスサノオが自分の短慮を悔いて泣く日々を送っているうちに、殺してしまった神の体から様々な穀物が実りはじめ、生き返ったその神が自分の体から生えた稲穂をスサノオに食べさせると、スサノオは生まれ変わったように髪も髭も爪も戻ったばかりか、今まで持っていなかった優しい心と知恵が芽生え、そして彼は旅に出るんだ」
 そこで陽子は話を止め、朱衡を見上げた。
 「救恤・・・」
 「そうだね」
 微笑した陽子は再び雲海の彼方に視線を飛ばした。
 「延王の出自を知った後、延麒にいろいろ話を教えてもらった。延王の蓬莱での郷里には、一族が祀る海の神がいたそうだ。大山祇大神といい、当時、水軍を率いる大名たちが熱心に信仰したらしい。一節ではその大山祇大神が、スサノオと同一人物だともいう」
 繰り返すさざ波の音は、止むことを知らない。
 「蓬莱での延王は戦のただ中で生き、居場所を失い、この世界に引き戻された。国と民を守りきれず滅ぼしてしまったかりそめの郷里にかわって、延王は祖国の王として、民に恵恤を施し続けている。延王は生国で生まれ変わった。延王自身がそれを望んだ。たとえかりそめといえど無くした国を愛していたはずだから、もう一度、自分だけの国と民が欲しいのだ、と延麒は私にそう話してくれた。ならば延王は今、旅のただ中にいる」
 東の海神は時空を超え、西の滄海へと飛び込んでゆく。
 移ろう人生の儚さを知るが故、激動する世の変遷に挑むため。
 「私には私の旅がある。だから、延王に添うことはきっと出来ない」
 大海にこぎ出た海神の操る舟に乗るのは自分ではなく―――
 「あなた方、雁の国の人々だ」
 陽子は王の声で断言した。朱衡は戦き、声を無くした。<br>
 

 たなびく緋色の綾を目の端に留め、朱衡は陽子の視線が追う雲海の彼方を見遣った。
 潮の香にようやく、はじめて、自らも失ったものに対する寂寥の情が、色濃くわき上がるのを感じていた。



 その日の夕刻戻ってきた尚隆は、朱衡の口から陽子の来訪を報され、ひどく残念がってみせた。
 「せっかくよい水瓜が手に入ったものを、馳走し損ねたな」
 「そこまで悔やまれるなら、今後は慎まれることです」
 「とはいえ街に出ねば、この水瓜も得られぬところだ」
 着替えの袖に腕を通しながら、だらしなく長椅子に体を預けた尚隆の鼻先に、青影(セイチン)の大皿に盛られた瑞々しい水瓜が、整然と端座して主の手を待っている。
 「うしたのです、これは」
 「昼食(ちゅうじき)を使おうと思ってな、仲見世に出たら、荷物に難儀していた媼がいた。手を貸してやったら駄賃だと云ってこれをくれた。実に美味だ、おまえも食え」
 さっそくかぶりついている主の、なんとも情けなくなるような格好を目にした朱衡は、こめかみのうずきに顔をしかめながら、丁寧に辞退を申し上げた。
 ふたつ、みっつと立て続けに胃に収め、それでようやく尚隆はいつもより朱衡の、あの歯に衣着せぬ諷諫(ふうかん)が少ないことに気づき、首を傾げた。
 「どうした、腹の具合でもおかしいか。薬師(くすし)を呼んでやってもいいぞ」
 「主上こそあまり慌てて食されては、夜半にも薬師の世話になりかねませぬ」
 「ふむ、それも困りものだ。これを食ったら終わりにするか」
 食いかけを持った手で大皿を弾いた。ちなみにこの青影の皿を市に出せば、大きな璧をふたつ購ってもまだ釣りがくる。
 露台からの夕風が室内を通り過ぎる。
 「いい風だ」
 果汁で濡れた手をぺろりと舐めた尚隆は、まるで引き寄せられたかのように表へ出ると、舟の舳先を思わせる露台の手摺に腰を下ろして風を受けた。
 潮の香はいつも、いつまでも、心のどこかを騒がせる。
 甘やかな思い出ひとつとてないあの、遠く隔ててしまった郷里の海は、もはや己の知るそれではないとわかっていながら、気が付けば記憶を馳せる自身の胸裡を不可解に思う。
 この地に骨を埋めようと、心に決めて六太の肩を抱いたあの日。
 あれから幾星霜の季節を重ね、蓬莱で過ごした日々などとうに記憶の襞に埋もれてしまっているはずが、それでも求めて止まぬのは何故だ。
 所詮、この身に流れる猛った武士(もののふ)の血は、両手を朱に染めぬ限り静まることはない。
 この手で死の淵から興した雁の国は、いつの日か必ず、やはりこの手で滅ぼすのだろう。瀬戸内の海に消えた国のように、雁もまた消えてゆく。
 「なにをお考えです・・・?」
 いつの間にか背後に控えていた朱衡の、頑なな声が、尚隆を沈思の波から引き上げた。
 「―――血が見たい」
 振り返らずとも、朱衡の凍り付く様がわかった。
 「誰ぞと殴り合いでもしてくるか」
 努めて明るくそう揶揄したが、朱衡の表情は氷の美貌を崩さない。嗅ぎ取られたかと思ったものの、今更撤回する気も起こらなかった。
 だから―――誰にも本音を打ち明けられぬのだ。
 己の望みは雁の滅び、血塗られた戦の日々。
 国の上げる断末魔の苦鳴こそが、なにより我が身をとろかす甘露だと。
 「・・・深酒が過ぎた」
 ようやく振り返った尚隆を、朱衡は食い入るように見つめていた。
 「今しばらくは宮で大人しくしていよう」
 「殊勝なお心がけです」
 「ならばそんな顔をしてくれるな」
 苦笑混じりに懇願する尚隆に、拭いきれなかった翳を見て、朱衡は指先が白くなるほど握りしめていた手を、伸ばした。
 夕の風が尚隆の髪を弄び、波打つそこに差し入れた掌をひととき冷やす。
 思う様吸った主の濡れた唇をほどくと、おもむろに朱衡は舌先から小さな種を摘んでみせた。
 「瓜の種がついておりました故」
 「随分原始的な取り方をしたな、おまえ」
 への字口でそう不満をたらす尚隆に、朱衡はあくまでしれっとした表情を崩さない。
 「その白魚のような指はただの飾りか。次から筆も口で取るがいい」
 「必要とあらばいつでも」
 「ふん、おまえならば本当にやりそうで厭だな」
 その上たいした達筆だろうよ、と尚隆は毒づき、それきり口を閉ざした。
 雲海が染まる。眩いばかりの鮮やかな朱に。
 かつて瑞雲とともにここへ運ばれた彼は、その日を境に別の海へと漕ぎ出した。
 先の見えぬ大海の、永遠とも云える紺碧の海原を、海神の舟はゆく。
 「―――あなたの舟に、乗せていただけませんか」
 静かに囁いた朱衡を見上げた尚隆は、一瞬、傷に顔を歪めたような表情を浮かべ、やがて透明なまなざしを瞼に隠した。
 「俺の舟は荒っぽいことで有名だ。振り落とされても知らぬぞ」
 「もとより、覚悟の上。でなければ」
 朱衡が微笑む。
 「あなたに身命を賭して仕えようとは、思いません」
 「物好きなことだ」
 「その言葉、そっくり返して差し上げる」
 今一度求められた冷たい唇を、尚隆は無言で受け入れた。



雲か山か呉か越か

水天髣髴青一髪

万里舟を泊す天草洋

煙は篷窓に横たはりて日漸く没す

瞥見す大魚の波間に躍るを

太白船に当りて明月に似たり



頼山陽「泊天草洋」



- 了 -





   ***α-alpha を運営しておられるにきーた様よりの頂き物です。

 うっわぁぁああああ!!
 ありがとうございますありがとうございます、にきーた様!!
 素晴らしい賜りもの、感無量でございます。
 ワタクシが押し付けたのはどちらも殺人小説、頂いたのは延王救済小説……こんなところで徳の差が……。
 典雅な文章、美麗なお言葉にうっとりしつつ、改めて御礼申し上げます。
 またチャットに乱入させてくださいませ!

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